SONG LANG 思い出話

さいきん観てとても好きになったベトナム映画の話をします。緊急事態宣言が出るような状況で東京も横浜も上映していた映画館が臨時休館,それに伴い上映終了。少なくともこの騒ぎが収まるまでは,観られなくなってしまいました。いつ収まるともしれないのに。
あまりに辛いので,思い出話を書きます。
レビューじゃないです。思い出話です。
5月以降公開予定の映画館もあるので,まだまったく終わりではない。次にスクリーンにかかったとき,機会を得た人には劇場で観てほしい。
それにはこんな,未見の人に不親切なうえに物語の核心に触れるような具体的なネタバレもある思い出話は相応しくないんだけど,現時点での今後の公開予定のなかで自分が観るのは難しそうなので,そろそろ吐き出しておしまいにしたいのです。お付き合いくださいと言いたいような言いたくないような,難しい気持ちです。

さて,そもそもの始まりは3月1日のこと。美容室で待ち時間に読んでいた女性誌に,宮沢氷魚さんのインタビューが掲載されていた。彼が主演した「his」という映画の。興味を持って,その日の夜に観に行った。今年の早い桜が咲き初めていた記憶がある。すでに世の中はあまり愉快ではなくなっていた。
岐阜県の白川町を舞台にしたその映画は素晴らしかった。白川の自然の美しさ,宮沢氷魚演じる迅の透明感ある佇まい,6歳の空ちゃんの強さとかわいらしさ。大切な人を大切だと言い切ることや大切にすることの難しさと尊さ。人のあたたかさ,痛み,弱さと強さ。マイノリティの生きづらさを描き,現実より少し優しい世界を描き,エンディングに希望と未来が見える。何度も映画館に足を運びたくなる作品で,結局3回観た。(4度目も目論んでいたが叶わなかった。)

とかなんとか,それはまた別のお話。で,鑑賞後に感想やらを読み漁ってる中で,ゲイを描いた映画という括りでたまたま目に留まったのが,この「ソン・ランの響き」(原題「SONG LANG」)だった。2月下旬のホーチミン旅行から帰京して以来毎日のように「ホーチミン楽しかったね,ごはん美味しかったね」と思い出話に花を咲かせていた折のベトナム映画。気にはなりつつも諸々あり,折り合いをつけて観に行ったのが,新宿での上映最終日だった3月20日。世の中はすこし緩んでいた。このときまでは。

良きゲイ映画らしいという心づもりだけで,配給会社の紹介ページも斜め読みで予告編も見ぬまま鑑賞。たっぷり尺を取ったカイルオン*1や主人公ふたり*2の長い一夜を過ごしながら,102分の作品でこんなスローペースでいいのかしら,と引っかかりを覚えていた。
ほかの感想を読むと,途中で結末を予見できたというのをけっこう見かけるんですが。わたしは「聞いてねえよ!!!」だった。やりきれなかった。
予見できようができまいが,その「観ながら感じる予感」含めて映画の味わい方だと思うので,観る人には先入観なしで観てほしい,一方で,観終えた自分の感想や解釈や好きなところは力説したいジレンマ。

力説することにしました。
言うまでもなく,不確かな記憶に基づく個人の感想及び解釈なので,記憶違い認識違い誤解,多々あると思います。イントロダクションは省略,参考URLは最後にまとめて。前述の通り,ネタバレあります。

本作はとにかく絵が綺麗だ。舞台となっている80年代のサイゴンの湿度と埃っぽさが匂い立つ少しざらついた映像に,郷愁を呼び起こすカラフルだけれどマットな色調。4:3の画角に描き出される1カット1カットの構図がどれも美しい。

とくに好きなのは,ユン*3が教会で祈る場面。画面左端に人物バストアップ,視線はその正面,つまり,こちらを見ていない。すっとカメラが引いて天井からの俯瞰になる。木造の美しい教会の白い壁と床。数人がそれぞれに自分の祈りを捧げる静謐な場面。
それから,公式サイトにも載っている,ダングエット*4を抱えて物想うユンが画面の右端で右を向いている場面も,壁の白さに観葉植物の緑が映えてとてつもなく美しい。
二日酔いのリンフンがベッドで少しけだるげに壁にもたれ,脇の姿見に奥でファミコンに興じるユンが映っていて鏡越しにぽつぽつ会話をしているところ*5は,ふたりの心の距離が見えて風情がある。同じ姿見でも,翌朝,ユンを待つリンフンを姿見だけで映しているところは,リンフンのプライベートを覗き見をしているような気まずさがある。
ユンのアパートの階段を真上から見下ろすショットも綺麗だ。壁の青緑色に花のような造形の鉄柵も洒落ている。満月の夜の屋上,朝の廊下,夕陽が射し込む室内,終演後の深夜の劇場。光と影の織りなす陰影も風情がある。
暴力シーンもあるし朝には町内放送で歌謡曲が流れるような賑やかな街でもあるけれど,静かな場面が多い。そこに,弦の切なく美しい調べが乗る。

80年代サイゴン

知らない街の知らない風景なのに,どこか懐かしさを覚える。
ドイモイ前夜のサイゴンの街並みは,もちろん経済発展著しい今のホーチミン市街とはまったく異なる雰囲気だが,空港との往復で通った郊外には面影が残っていた。通ったのが早朝と夜だったから特に,映画で描かれる深夜の通りを見て光景がよみがえった。ユンの住むアパートも,細かいところはぜんぜん違うけれど,レストランのあった配線剥き出しの古アパートを思い出すし,アパートの屋上を映す霞んだ夕焼け空は,サイゴンスカイデッキやホテルの窓から観たホーチミンの空を思い出した。
カイルオンの劇場の公演看板絵は自分が子どものころの映画の看板みたい。一列でステージを向く方式の指揮者のないオーケストラピットが独特。打ち出し後の劇場玄関には迎えの人力車が多い。

カイルオン(cải lương)

20世紀のベトナム南部で発展し人気を博したカイルオンは,ユンの為人をつくった重要な鍵でもあり,ユンとリンフンを出会わせ引き合わせもした。
リンフンの所属する劇団がかけている「ミー・チャウとチョン・トゥイー」は,ベトナムではポピュラーな昔話が題材らしい。隣国同士の身分の高い若い男女が婚約し愛を誓う。しかし政情が変わり両国は戦を始める。涙ながらに別れ別れになる二人は再会を約すが,まわりの大人は二人の仲を許さない。恋人の国を攻めねばならぬことに苦しむチョントゥイー。傷物にされ裏切られたと哀しむミーチャウ。婚約者恋しさのあまりに取ったミーチャウの行動がミーチャウの国に打撃を与え,ミーチャウは父の怒りを買い,そして……という悲恋だ。
京劇のような派手な舞台化粧は,差し色の紅が色っぽい。エキゾチックな衣装にきらびやかな髪飾り。アジアっぽい短調ベースの音階に独特の節回しで,抑揚豊かに歌い上げる。
おもしろいのは,音楽にダングエットやソンランといった伝統的な民族楽器だけでなくギターやサックスなどの西洋の楽器も一緒に使われているところで,時に伝統的に情緒的に哀切を帯びて,また時には現代的でポップで俗なわかりやすさをもって,お芝居が進む。終演後の追い出しに「蛍の光」が演奏されるのを当然と受け入れている自分がいたが,よくよく考えたらここは80年代のサイゴンだった。
楽屋のわちゃわちゃした感じや一座の仲の良さも楽しい。そして,リンフンは師匠(団長さんかしら)に言われる。おまえはテクニックはあるが心がない。恋をして失恋しろと。

人物造形

映画は,仏教寺院*6でソンラン*7を手にするユンのモノローグから始まる。“父が言っていた。ソンランはただの楽器ではなく,……”云々。
初見ではわかりづらかったが,この場面から少し時間が巻き戻って物語が始まり,再び冒頭の場面に追いついたときにこの場面の意味がわかる。そのときの「こういうことだったのか」がすごい。そして胸が痛い。
全体を通して絵的で静的で芸術的な描写は,観る者にとってあまり親切ではない。台詞は少ないし,多くを説明しない。表情で語るが,それも曖昧で,解釈は見る人に委ねられている。それが,深く余韻を残すところでもあり,一方で,素っ気なく不親切なところでもある。

筋立ても人物設定もありふれてはいる。性根に優しさがある裏稼業の若者(ユン)と,美形の役者(リンフン)。それぞれの社会で周囲の人たちに認められながらも,心に孤独を抱えている。ふたりの出会いは最悪で,最初は反目するが,少しずつ打ち解けて心を開いていき,相手の存在が自分に変化をもたらす。お互い相手を自分にとって特別な人だと思うように,な,った,の,か,な。ぐらいまでが描かれている。

ベタ。でも,絶対好きなやつ。恋愛物も大好きだけど,恋愛じゃない強い結びつきも大好き,まして友情と恋の境界線要素。
名前のつけられない分類できない感情,まだ名前のない特別な関係の始まり。自分の恋心を自覚したであろうリンフン。一方ユンのリンフンに対する感情はおそらくもっと曖昧なもので,でもリンフンとの交流をきっかけに自身の生き方を大きく変えようとしたユンの決断には,ユンにとってのリンフンの存在の大きさがあらわれている。

細かい好きなところは沢山あるけれど,これに尽きる。あとの感想はぜんぶこの繰り返しと蛇足だ。

ユン(Dũng)

この物語はユンの内面を主軸に描く。
高利貸しの取り立て屋としての冷酷で凶暴な面と,古いけれど味のあるアパートでの手をかけたていねいな暮らしぶりとが対照的だ。本来は両親に愛情深く育てられた優しい人物なのだろう。取り立ての場面でも,端々に人柄の良さが見え隠れしている。どうやら種が嫌いらしい,そういう細かいところもかわいい。ヤクザ稼業は子どものころに母親が去り,父親も早くに亡くしたためであることが後に描かれる。
ユンを演じたリエン・ビエン・ファット(Liên Bỉnh Phát)はこれが俳優としての初仕事だったそうだが,演出も相まって,とても魅力的な人物になっている。
ユンとリンフンの関係は,ユンがリンフンの劇団に取り立てに行くところから始まる。ユンは,劇場に行く前に、少し,いやだな,という表情をする。それはユンにとってカイルオンの劇場と劇団が,懐かしい記憶であると同時に母親にまつわる辛い記憶を呼び覚ますものでもあるからだろう。ユンの子供時代の回想が差し挟まれる。(余談になるが,楽屋を訪れたユン少年にまわりの大人が「ご飯食べた?」と声をかけるところは,おお,ベトナムの挨拶! と感動した。)
ユンは身も蓋もない言い方をすればマザコンをこじらせていて,母恋しさと母に捨てられた(と思っている)寂しさうらめしさとを大人になった今もずっと引きずっている。たまに寝る関係らしい女友達のラン(Lan*8)がいるが,彼女との間柄はよくわからない。メタ的には,本作は指一本も触れ合わないしゲイ映画という枠組みで捉えないでほしいと監督が語る*9程度に同性愛を描いた作品なので彼女のことを「時折セックスする関係のただの女友達」と判断しがちだし,さらにメタな話をすると,ランの中の人はユンの母親の中の人の実の娘でつまりユンは母親の面影を求めているということのようなのだけれど*10,そういう前提を抜きにして見ればふつうに付き合っている彼女のように見える。ランは自分の弟のことで困って深夜にユンを尋ねユンもそれに協力するし,ユンもリンフンといろいろあった翌日に彼女に会って自分の決意を語っている。たぶん。
だから,二人の仲は親密で信頼関係があることは確かだろう。ただ,彼女に自分の決意を語ったとみられる場面は,そうはっきりと描かれてはいないけれど,ユンから別れ話をしたんじゃないかと思う。店内に流れる「ケセラセラ」。ランは「どうするつもり?」としか言わない。責めないし恨み言も言わない。ユンも何も言わない。でも,別れ話だったと思う。なんとなく。

YouTubeのオフィシャルチャンネルに,公開前にカットされたシーンが上がっている。回想シーンにのみ出てくる母親が,カットされたシーンでは現代に登場している*11ベトナム語なので(一部英語字幕もあるがそれも)内容はわからないのだが,これらのシーンがあればもしかしたらユンの母親への葛藤は幾分解消していたのかもしれない。しかし,本編を見る限りでは,ユンは,リンフンとの出会いによってようやくマザコンから抜けだしはじめたばかりだ。
リンフンとの出会いや分け合った時間,交わした言葉と育んだ友情のようなものがユンにもたらしたのは,母の面影の呪縛からの解放だ。まだ自身の内面と向き合っている段階で,リンフン自身に対して感情が向くのはもう少し後のことと感じた。

とはいえユンは,リンフンを大切に扱っている。ぶっきらぼうで口は悪いけど。ランと(おそらく昼下がりに)情事に耽った際,彼女は,どうしてベッドがあるのにいつも床でするの背中が痛い,と苦情を言う。それは「ていねいな暮らし」をしているユンにとってベッドが壊れそうでイヤだとかの些細な理由かもしれないが,自分の家にまでは入れてもよりプライベートな領域にまでは立ち入らせないということなのかな,とも思えた。だけど,その後(翌日か)酔って暴れてぶっ倒れたリンフンを連れ帰ったときはベッドに寝かせている。客人として遇したと考えることもできるが,長い夜を共有してそこそこ気の置けない関係になったあとも彼にベッドを譲って自分が床で寝る。
ベッドで横になって目を閉じるリンフンの顔をちらと見て(カメラはユンの目線だと思う),ユンは背を向けて床に横になる。距離を取って寝る素振りはごく自然だけれど,リンフンに向けるユンの視線はあたたかく,観る側が少しどきっとする愛おしさも含んでいる。翌朝,ユンが先に目覚め,まだ寝ているリンフンの寝顔を見て(これもユンの目線だと思う),ふたりぶんのコーヒーを買いに外に出る。リンフンと窓辺でコーヒーを飲みながら短い会話を交わし*12,リンフンが帰ったあと,ユンは大きな決断をする。ランが言うまでもなく「どうするの?」という状況なのに,ユンの瞳から暗い陰は消えていて,さっぱりと明るく,前を向いている。

リンフン(Linh Phụng)

ユンが,まずはマザコンの克服と裏社会からの脱却だね恋愛はきっとそれからだね,と思わせるのに対して,リンフンは,短い間にユンに恋をした。そしてリンフン自身,どこかで自分の気持ちに気づいたようだ。
いつごろ気づいたのかはよくわからない。
朝目が覚めて,ユンを待っているときかもしれない。ユンの部屋を出てから,壁にもたれて大きくため息をつくときかもしれない。このシーンは,ベトナム版のオフィシャルトレーラーに入っているけれど*13,映画のストーリーの文脈で見てほしい。こちらの胸がざわざわしてどきどきするから。(まあまあネタバレですが)彼はユンを自分の劇団に誘う。それに対してユンは明確な返事をしない。自分たちの最悪の出会い方を覚えていないのかとユンに言われ,リンフンは(日本語字幕では)今思い出した,と言って部屋を出る。台詞は一音節程度で,とても「今思い出した」には足りそうにない点は気になるんですが,わからんので仕方ない。
そして朝日の射し込む壁にもたれ,ふ,と息を吐く。ユンのアパートを立ち去るのが名残惜しくて後ろ髪を引かれているのか,いまさら自分の発言の意味に気づいたのか,振り絞った勇気に対しての気恥ずかしさなのか。約束にならなかった提案は,ユンにヤクザ稼業から足を洗ってほしい気持ちに,また会いたいというメッセージが乗ってしまう。
あるいは,それよりあと,うっかりプレゼントを買ったときかもしれないし,くじに外れると愛に当たるって言うよと言われたとき*14かもしれない。そう言われてあいまいに笑ったときにはたぶんもう好きな気持ちに気づいている。誰かの顔が思い浮かんでしまった戸惑い含みの微笑みに,こっちが照れてめろめろになってしまう。めちゃくちゃかわいい。
その日の楽屋では,支度しながら自分が買ったプレゼントの包装をちら見してはうきうきし,同僚で恋人役のヴァンに今日は別人みたい,と言われる。人を恋しいと思う気持ちを知ったリンフンの芝居に心が宿る。

監督はリンフンの配役については思うところがあったようで,韓国のポップスターのような容貌のアイザック(Isaac)は監督のイメージとは違ったのでいろいろな俳優に会ったが,結局いちばんバランスが良かったのはアイザックだった,と。*15
アイザックカントー省出身のVポップスターだそうだが,たしかに韓国のポップスターのような顔立ちをしている。おそろしく整った顔面とバランスの良いがっしりした体躯には性を超越した美しさと存在感がある。そして,とんでもなく舞台化粧映えする。オタク語彙で言うところの「顔がいい」「作画がいい」。こんな看板役者がいたら,公演全日程通い詰める。初日に盛装して特注ケーキを持って最前列で観劇し,ふだんから時計から金鎖からプレゼントしてるっぽい太ファンのマダムの気持ちが超わかる。劇中のカイルオンも吹き替えなしで歌っていて,声も歌もほんとうに素敵だ。

田舎の出身でカイルオンに憧れ両親を説得して役者になったというリンフンは,けして弱々しい人物ではない。むしろ強く美しい。ユンとの出会いからしてわりとファイティングポーズだし,売られた喧嘩は買うし,ファミコンストリートファイター?)はユンより上手。軽口も叩く。自分を持って自分の夢に向かい,真摯にきちんと生きている。そこがいい。
それでも,自ら望んでのこととはいえ,孤独をかかえている。どうやら役者稼業は少しだらしないくらいがふつうと見なされている世界で,色事にも無縁,酒もそんなに飲まない,賭け事もしない。劇団の人たちとの仲は悪くないけれど大勢で騒ぐのは好きじゃない。技術は高いけれど心がないと評される。生真面目で役者一筋だから,良い役者になるには悲しみだって経験しなくてはならないと言う。痛々しく,さびしい。そんなリンフンが,最初は敵として現れたユンの意外な優しさと意外な不器用さに触れて少しずつ心を許していく。自分の来歴や家族のことや仕事観を語り,不安や心細さを受け止めてもらえたことで,どれだけ心が軽くなったか。

リンフンの表情がいちいち愛おしい。
時間軸は前後するが,ふたりが打ち解け合ってユンの部屋に戻ってきたときドアの前にランがいたのを見てからのリンフンの態度が,もう,めちゃめちゃかわいい。顔が良い人間が無自覚に嫉妬して無自覚に拗ねて無自覚にむくれているのがたまらなくかわいい。リンフンはぜんぜんわかっていない。デートの約束を忘れていたのかと言いつらね,自分には急用ができたがリンフンは家に居ていいと言うユンに,デートの邪魔をする気はないと言う。口では。顔には,女がいるなんて聞いてない,面白くない,一人で待っているのはいやだつまらない,とそのたぐいのことが山のように書いてある。
そして,ユンはリンフンを連れていく。ランとユンの関係を見て安心できる材料を得られたとも思えないのだけれど,そこでユンの新たな一面を知り,さらに惹かれている様子が伝わってくる。月夜,ユンの運転するバイクの後ろで。
ところで,日本語予告編に「バイクに乗っていると君を思い出すね」という台詞がある*16。ここに至る伏線*17をおもうとほんとうに素敵な発言なのに,本編には出てこない。とても残念だ。

長い夜だ。家に帰ったあとで,さらにユンの哀しさと寂しさを知り,より深く心を通わせることになる。寝るころには,好きになってるに決まってる。彼ら自身が気づいていたかどうかは誰にも分からないけれど,ほんの少し歯車がずれて噛み合ったらもっと違う夜になったのだろう。後戻りできないような。いや,すでに,後戻りのできないところに足を踏み入れていただろうけれど,もっと,どうしようもないような。
だけど,そんな決定的な衝突は起きないまま,お互いにあいまいな気持ちをあいまいに,持て余すまでもないくらいの,気づかないくらいの。楽しかったな,とか,友達になれそうだな,とか。それぐらいのちょっと楽しい気分を抱えて床につく。

終わりに。プロモーションとか

本作は世界各地の映画祭等で多くの賞を得ているが,ベトナム語版のウィキペディアによると,興行的には大きな成功は得られなかったという。日本でも,わたしが観に行ったのは公開約1か月後だとか外出そのものを控える機運が高まりつつあったことを差し引いても,ミニシアターでこぢんまり上映されるスタイルにかわりない。
もったいないことだと思う。
「ボーイ・ミーツ・ボーイの物語」と打つ日本版のキャッチは,見終えて,そうだけどそうじゃない,と感じた。そうであってそうじゃないところにこそ,この映画の魅力が詰まっている。
けれど,じゃあ例えば,ベトナムの伝統的大衆芸能を舞台に若者の喪失と再生を描いた物語などと謳われたとして,観に行くか? わたしだって,男性同士のラブストーリーという部分に興味を持ったのは否定できない。
例えばベトナム本国版のポスターはとても美しく素晴らしいものだけれど,前提となる知名度のない日本であの絵で観客が大挙するかは甚だ疑わしい。
プロモーションって難しいな,と思う。
映画をふだん観ないので,ほかと比べての良し悪しはわからないし,映画界の文脈で語れることもない。
でも,わたしは好きです。短い間だったけれど,出会えて良かった。
映画を作ってくれて世に出してくれて,日本で公開してくれて,ありがとうございました。
機会があればぜひ観てほしいです。

参考

公式サイト
www.pan-dora.co.jp
日本語版予告編|冒頭からリンフン(チョン・トゥイー)の歌
www.youtube.com
SONG LANG (2018) | Official Vietnam trailer(英語字幕)
www.youtube.com
ベトナム版ポスタービジュアル


記事各種
世界が絶賛したボーイ・ミーツ・ボーイの物語『ソン・ランの響き』-レオン・レ監督、主演リエン・ビン・ファットがお揃いの衣装で登壇!初日舞台挨拶 - シネフィル - 映画とカルチャーWebマガジン
「ゲイ映画」と呼ばないで ベトナム映画「ソン・ランの響き」の挑戦:朝日新聞GLOBE+
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Wikipedia
Song lang (phim) – Wikipedia tiếng Việt
ソン・ロアン - Wikipedia
「ミー・チャウとチョン・トゥイー」
ミー・チャウとチョン・トゥイー - ベトナムぶんぶん

*1:cải lương:ベトナム南部の伝統的なローカル大衆歌劇

*2:高利貸し取り立て屋のDũng(ユン)とカイルオン役者のLinh Phụng(リン・フン)

*3:南部発音で「ユン」とのこと。現代ベトナム語は漢字は使わないが「ベトナム人の人名」等で検索したところ「勇」っぽい。すてき。

*4:Đàn nguyệt/彈月:ベトナムの民族楽器でリュートの類の撥弦楽器

*5:ベトナムオフィシャルトレーラー1’30”

*6:チョロンにあるBà Thiên Hậu Pagoda/天后宮らしい。

*7:映画のタイトルでもあるベトナムの民族楽器で,カスタネットみたいな打楽器。

*8:日本語字幕に出てこないのでカナは適当。

*9:朝日新聞Globe+の記事参照。

*10:ソースは行方不明。

*11:どこかの監督インタビューで,ユンの母親が家族を捨てたのには当時の政治的な事情が大きく関係しており,政治的な事情を描いた部分は入れられなかったとかなんとか読んだ気がするがソースは行方不明。

*12:日本版のポスタービジュアルにもなっている,とても素敵なシーン。

*13:1’19”

*14:日本版予告編0’40”

*15:日本公開時の舞台挨拶各種参照

*16:1’10”

*17:たとえば「ガソリンのにおい」