実家のわたしの部屋の隣の和室は現在物置になってしまっていて,

わたしの荷物がごちゃっと置かれている。大きなスチールの本棚のほかに,京都から持って帰って東京に持っていっていないもの(れじゅめや下宿関連用品)が段ボールのまま積み上げられていたり,箪笥から追い出された昔の衣類が箱に適当に詰め込まれて積み上げられていたりする。以前「たわごと」に「洋服を捨てたことがない」という話を書いたとき「家族の誰かが捨てているかもしれない」と書いたが,今日見てみたら,高校時代の制服や中学時代の体操服がわらわらと出てきたので,ひょっとすると「子供服」を卒業してからの衣類は全部残っているんじゃないだろうか。母親から譲り受けて実際には使わなかったもの(衣類や関連小物)もいくつか見られて,えらく懐かしい想いがした。


ゴミ同然のくせに開けると時間がかかるアンタッチャブルな箱(試しに一つ開けてみたら,BKの入館証と「カルトミュゼ」が同居していた。時間軸もめちゃくちゃ)やもう二度と袖を通しそうにない洋服が大半とはいえ,中には重宝しそうなものや持っておきたいものもちらほら。置いておくスペースがあるのをいいことにほったらかしにしているけれど,そろそろ,きちんと中身を確認して片づけた方がいいような気がする。いつか誰かが片づけなければならないし,まだ使えるものがあるのに実家に眠らせておいて(存在の確認すらなされていないので実家でも使われていない)新しく買うのはもったいないし。とりあえずグレイのジャケットと白いサンダルとピンクい靴と下駄二足(浴衣用に買ったものですね)は持ち込むかなぁ,と。履物は置き場の確保が困難だけど。タオルやシーツも衣裳ケースごと残ってるんだがね。


今は年にせいぜい2回しか実家に帰らなくなってしまったけれど,実家に帰ると,一気に,自分がその部屋に毎日住んでいた頃にまで時間が戻る気がする。けれどそこで戻るのは,なぜか家を出る前の高校生だったころで,だから,京都にいた頃に買ったものや就職して住んでいた7ヶ月の間に導入されたものが当たり前のように存在している様子に出くわすと「何故これが実家にあるんだろう(東京の家に置いていないんだろう)」とものすごく違和感を覚える。箱の中に入ったままのものはまだ良い。「京都から持って帰って置きっぱなし」というのがわかりやすいし,中身が見えないから。顕著なのが書棚の本,それから学習机の上にバラで置かれたMO。本は,就職するタイミングで京都から実家に戻ったときに箱を開けて本棚に並べたにも関わらず東京へは最低限しか持ち出さなかったので,大きなスチール棚に高校時代に買っていたものと大学時代に買ったものが混在している。時間がぐにゃぐにゃしている。


就職してから東京に越すまでの7ヶ月は,短い時間ではなかったはずなのに殆ど記憶に残っていない。正確に言えば,自室と自室での生活が記憶にない。職場や一緒に働いていた人々のことや当時の仕事の内容,通勤途中の様子などはきちんと(詳細はともかく,そういう生活をしていたことは)覚えているけれど,その間わたしがこの家で・この部屋で暮らしていたことがまるで実感が伴わない。その理由は明白で,つまり土日の殆ど(月の半分以上)家に居なかったので,自分の部屋に(起きて)居た時間がとても短かった。


その7ヶ月に使っていたもの(パソコンや洋服)はあらかた東京に持ち出され,残された部屋は抜け殻のようにがらんとしている。隣の部屋にはそのたった7ヶ月の生活のために居室から追い出された高校時代までの物品(京都に住んでいた間は居室に置きっぱだった)と京都から持ち込まれてそのまま置いておかれている「特に必要でない」ものが,ゆがんだ時間の階層の中にばらばらと存在している。四半世紀にわたるわたしの過去が雑然と積まれている。