いざとなるとなんか書き出せないのだけれど前から書こうと思っていたことを取り敢えず片端から。

NHK月曜ドラマシリーズ「恋する京都」の最終回(3/19放送)にちょっとだけ出てきた幼女が,「この子役,どっかでみたことある〜〜。どこだっけ〜〜。」とずっと気になっていたのだが,今日NHK朝ドラ「てるてる家族」の次週(最終週)予告を見ていて突然思い出した。「てるてる家族」の予告には初代子役2代目子役の子達が揃っていたのね。で,それをみた瞬間,その月曜ドラマシリーズの子は“「まんてん」に出てきた藤井隆宮地真緒の娘役の子じゃん。”と。これは本題ではありませんが。


この月曜ドラマシリーズ,鶴田真由の娘(前述の幼女とは別)が,いいキャラだったのですよ。小学校の4年生だったか5年生だったかという設定で,見た目は痩せ型で背が高くて髪も短く,性格も男勝りのちゃきちゃきしたおもろい子。最初は子役らしい(子ども芝居くさい)大げさな感じが気になっていたが,回を重ねるごとにそのややオーバーなセリフ回しもキャラとして確立し,つまりは演技も板についていて,これはすごい役者だなぁ,と思ったのよ。少なくとも主役は食っていた(笑)。最後の方でも多少は気になるところもあったけど,だいたい子役ってさ,ってのを考えるとかなりうまい。お陰で,ドラマの中で学芸会のシーンがあったのだが,その芝居は学芸会にしては不自然な領域に突っ込んでいた。


子役つながりで,火曜夜10時の某民放ドラマに出てくる子役の子はアーモンド型の目がかなり可愛い。そして親に敬語を使う。あれを見て「おいらも娘に敬語を使われたい〜」と萌えている男女は多いことであろう(おれだけか)。しかし一方で娘からはファーストネーム+ちゃん付けで呼ばたいという希望も捨てがたい。両立は可能だが,いずれにせよ実現させるには娘の幼児期にわたし自身が努力せねばならず,どちらも可能性は低そうだなぁと思うのだった(そもそも,娘が産まれなければ何も始まらない)。どうでもいいけど,この子の名前,最初読めなかった。今でも正解は知らないが。「美山加恋」さん。


名前読めないつながりで,わたしは自分の名前を,漢字で書き間違えられることは(姓名とも)それなりにあるし,姓のアクセント位置に至っては小学校卒業以来初対面で正しく呼ばれることを期待しなくなったが(ほかの姓の読み方を比べて思うのだが,どうもわたしの家族或いは小学校学区レベルの範囲は,全国の常識と異なる発音をするものが多い。これもきっと方言なんだろう),漢字で書いた名前を読み間違えられたことは一度もない(アクセントはここでは除く。本来日本語ではアクセント位置は意味の違いを決定しないものなので,問題視すべきことではない)。これは,わたし自身およびわたしの周囲の人たちにとって幸いなことだと思う。自分の名前の音と表記とどちらがより大切かを比べるのはナンセンスなことで,ここで私見を書くのもはばかられるが,わたしは,アクセントごときでぴーぎゃー言う割に,漢字を書き間違えられることはあまり気にならない。間違えても仕方ないと思っているもの。間違えると言っても,さすがに秦野とか奏とか書いて(変換して)くる人はいない。それがデフォルト設定の第一候補じゃないから,と片づけることもできるが,おそらくそうではなく,だいたい人は文字列全体の印象は覚えているもので,だから斎藤と斉藤は間違えやすくても,渡辺と渡邊を間違える人ってあまりいないんじゃないかとか。渡辺と渡部は間違えるかもな。そして,渡邊と渡邉は恐ろしく間違えると思うけど。


そんなわけで,とくに手書きでない場合,変換ミスはして当然ぐらいに割り切っているが,読みについては,アクセント位置ですら一言言っちゃうぐらい(最近は言わなくなった)だから,もし読み間違えやすい名前をだったら,初対面の相手でもものすごく憮然とした顔で即行訂正して,お互い心証を悪くするんじゃないかと思うのだよねぇ。尤も,それはそれで,今,姓のアクセントがどの位置に付けられても気にならなく(時には気がつきさえしなく)なったのと同じように,そして,漢字の書き間違いを気にしないのと同じように,そういうもんだと思って気にしないかもしれんが。


日本語の名前の漢字表記は難しい。正確には,漢字で書かれた日本人の名前を読むことが難しい。使える漢字が限られている上に,読み方については制限がないらしいので。じゃぁ極端な話「敏幸」と書いて「かな」と読ませても,民法(?)上は問題がないのか。きっと役所で止められるだろうけど。なんでそんなことになったのかは浅学にして知らないが。だから,突き詰めて言えば,文字表記を見ただけでその人の名前の読みが特定できることは,けして無い,と。ひらがなやかたかなは除き。


ふじもりが子どもの名前を考えるにあたって「とりあえず一意に読める名前に」することだけは必須条件だと言っていたが,その考え方は一理ある。(さきに書いたように,漢字表記する以上確実ではあり得ないのだが)。端から読み方を聞かないと読めないような表記にしてしまうならまだしも,ありがちな表記で読み方だけユニークなのは,親の権利ではあっても,その後の人間関係に於いて本人がめんどくさいだけだ。


同じ理由で,聞いただけで表記がわからない名前というのもあまり望ましくはないが,これは,現状で姓名とも,同じ音で表記が異なる名前が有象無象しているので,音を聞いただけでは表記がわからないのは当然という認識があり(電話受けメモもまずカタカナで書く)それほど気にしなくてもよいというか気にしたところで限界があるというか。


しかし,どうして使用漢字に限界があって読み方には限界がないのに,これほどまでに同音異字の名前が多いのか。理由の一つに,今の識字率の高さを当たり前だと思うな,というのがあるのではないかと推測。そして,当然だが音先行(或いは音優先)。


現代においては,名前の音と表記は不可分でどちらも変更できない固有性を持っていると認識しているが,それはごく最近のことなのだよねぇ。音ですら,前現代の女性は,戸籍と実際の呼ばれ方が違っているなんてザラなんだし。


この話には結論もなければ含みもありません。「加恋」は読めるまでに数週間を要したが,後で考えてみると他の読み方は無いだろう。だからこれは「一つに読める・読み間違えられない名前」ではある。命名の際に検討事項として「誰でもすぐに読める」を付け加えてみるのも良いのではないかと思うが,別に「加恋」が悪いとも思わない。そもそも「誰でも」などという曖昧な基準は曖昧なので意味がない。読めなかったわたしが極端な例なのではないかとさえ思うのですよ。しくしく。