やおいはニッチだ。

と,ふと思いついた。考えてみれば当然で,今更さも新発見であるかのように記すまでもないことだが。そもそもやおいに限らず(素人)字書き市場に参戦するからにはニッチを狙うものだろうが。


詰まるところ,“オリジナル”には,それが小説や漫画であれ実在の人物群であれ,読者が(やおいを創造しようとする人が)想像できるだけの隙間が残されていなければならない。最も必要とされるのは,言うまでもなく,そもそもの定義であるところの,本来性愛関係にない一対の男子を性愛関係に持ち込ませることのできる隙間。しかし,通常であれば毎日1分1秒の行動が逐一克明に記録公表されるはずもないので,その程度の隙間であればどこにでも生まれうるだろう(中には,限りなくオリジナルの人物の毎日1分1秒の行動を観察することが可能な環境にありながらもやおい化をやってのけた偉大な人物もいるわけですが,えぇ,もちろんあのお方のことです)。逆にいうと「隙間」ぐらいの狭さでないとやおいは生まれにくいとも言える(根拠レス)。広大な荒野から生まれるのはオリジナル創作であってやおいではないでしょう。


また,他人から提供されるもので満足できるのであれば,素人がわざわざ創作する必然性は低いし,本人も創作の欲求はさほど湧かないだろう。たとえ微妙な差であっても,既存のものでは埋められていない市場の隙間があるからこそ,人はその隙間を埋める創作を試みる。逆に言うとそうでないもの(そんなものはあり得ないが。全く同じものがあったらそれは盗作だ。)には存在意義はない。


何が言いたいかというとつまりここんとこもごもごがもごもごなので萌えねぇな,ということです。そんだけ。(そんだけかい)。隙間ってのは,何かと何かがあるからその間に生まれるわけで,最初から何もないところには隙間も生まれないんだよぅ。もう暫くがまんするともごもごがもごもごになるだろうから,また隙間も発生することでしょう。と,2月頃のまだ萌え萌えだった時期に書いた書き付け(A51頁。ほら,だって,ニッチだから。その程度の分量で埋まるニッチもあるわけだ。)を見ながらそんなことを思っていた昼休み。(00:54)