某野球チームの応援歌(歌詞とmidi)が載っているところを探していたら朝になってしまった。


6時前ぐらいまで起きていたんじゃないだろうか。そして3時間で目が覚めてしまった。逆にそろそろ眠くなってきた。ここで寝たら次に起きるのは夜だろう。それは如何なものか。


やりたいこと(やるべきこと)はいろいろあるが,まずは現実逃避的に「ためらいの倫理学」の続きでも読もうか。で,起きてから今まで2時間何をしていたかは自分でもよく分かりません。たぶん何もしていない(「起きた」といっても目が覚めただけなので)。時間というのはあっという間に過ぎていくのだなぁ。


上の実験は,ひょっとしてかおりさん(と,もしかしたらあわづさん)しか見られないのではないかと思いつつ。unicodeの数値文字参照で文字入れてます。タイ語のフォントが入っている環境であれば(うまくすれば)見られる…はず(WindowXPはデフォルト多言語対応?)。


可燃ゴミの回収が今頃来た。出せば良かった。おかしいな,いつも可燃ゴミは8時半過ぎには回収に来るのに。


日本人の名前をタイ語で表記する際短母音にするか長母音にするかが悩ましいところである。最後の音節を短母音にするとタイ語では自動的に促音節になってしまうので,上の綴りの場合,声調規則に伴い自動的に「さぁ,みんなわかるかなっ?」の語尾「かなっ?」と同じ発音になってしまう。それはあんまりではないか。


念のため書き添えておくが,短母音で終わると必ず「かなっ?」式になるわけではない。子音(子音字)の種類によって声調が決定される。しかし「ナ」の音を示す子音字は「かなっ?」式のものしかない(たしか)。


語尾を長母音にする(คะนา)とこの問題は回避されるが,しかし,平板に「かなー」(こういうイントネーションになる日本語を思い浮かばないが)と発声されることになり,それはそれであまりにやる気がなさすぎるようにも思われる。元気良すぎるのとやる気なさすぎるのとどっちがいいかという,いわば究極の選択だ。


ちなみに姓の語尾は長母音にしていて,やる気無く「はたのー」と呼びかける感じだ。むむぅ。


短母音にしておいて声調符号などで調整することも,できなくはない。しかし低声にしようとするとかなり複雑な綴り(คะหนะ)になるので,これもどんなもんか。


結論としては,日本語は世界の諸言語のなかで音韻の数が少なく発音は簡単なように(日本語ネイティブとしては)思うわけだが,日本語よりも音韻の数が恐ろしく多いタイ語で発音通りに表記することは案外あっさりと不可能ということだ。数の多い方が必ず少ない方を内包しているわけではないという当たり前の話。


しかし,ことばというのは本来音声によるコミュニケーション手段(「記号」なのか?)であり,文字はそれを記録する為の二次的な記号に過ぎない。耳でとらえる記号を目でとらえる記号に変換する時点で(カバーできる範囲が違うのだから)情報の抜け落ち等は発生するだろう。そして,あくまでも文字は「ことば」の中では二次的・副次的なもので(本来は)ある。


何が言いたいかというと,わたしなんかはついつい文字ありきで物事を考えてしまって「より音に忠実な表記」などといったつまんないことを大まじめに検討してしまいがちだけれど,文字なんてのはどの音を示しているかが分かればいいわけだ。つまり脳内で文字と音を結びつけているわけで,外国語の場合は意識的にその文字を外国語の音に接続すればいいという理屈になる。


例えば英語名前の外国人の名前をカタカナで表記したものに「ファ」と書いてあっても,英語を学習した人間なら日本語の「ふぁ」ではなく「f」の音だと思うだろう。文字主体で情報を伝達する場合にはその文字表記の言葉の発音に100%従ってしまうことも多いだろうが,口頭での伝達を伴う場合は,自分のことばで通常通りに発声し,聞いた方は耳で聞いたその音に近い音を出せばいいのだ。文字で表した場合に抜け落ちたり変換されたりする情報については当人の脳内で補完・変換すれば済むことである。


また一方で,人の名前そのものが所詮個体の識別記号に過ぎないので,その状況で「ほかでもないその人」を表せているのであればそれ以上の何かを求める必要は(これも本来は)ない。これについては,「姓が変わることへの拒絶感」等幾度も採り上げているように,人によって考え方や感じ方が随分と異なる領域である。わたしは自分の名前の固有性(堅さ? 確実性? なんかうまく言えませんが)にかなりこだわる方だからこそこういうつまんないことを考えて書いてしまうのである。


「固有性」というか。独自のものであり唯一のものであり,音情報と文字情報を併せ持っていてそのいずれもが1ミリ違っていても同じもの(=自分の名前)と認めない,ぐらいの。


「こだわる」人の中でもレベルやこだわりどころに違いがある。卑近な例では「岡本はさん」と書かれるのを嫌がった人を知っている(「は」という名前ではない人だ)。これは,変更度合いとしては実はかなり大きいが,よく使われる手法なのでこれを不快に感じる人がいるというのは少し驚きだった。逆に,変更度合いとしては小さいくせにこだわる人が多くまたそのこだわりが一般に認められている例としては,異体字の使用やアクセント位置だろうか。文字表記については戸籍に記載されているので確かに明記された固有性なり確実性なりを持っているものではあるが,今の電子情報の世の中では涙を呑むしかない人も多いのだろう。後者(アクセント位置)は「一般」にはそれほど認められて(気遣われて)いないが,N○Kは取材の際にアクセント位置を確認するという噂も聞いたことがあるので,ある程度は認められていると考えて良いだろう。文字として記録されない情報だから保存・伝達が難しいものではあるが。


あまりのこだわりぶりはうっかり著作権の一つも発生しそうな勢いだが,名前ってきっと名付け親の著作物ではないよねぇ。思想感情を表現しているようには思うが。どうなんだろう。


名前を間違えると言えば,職場のアルバイト氏がかなり頻繁にわたしの名前を間違って呼びかけてくれる。アクセントどうこうといったこんまい話ではなくて,同じセクションにいる別の女性の名前と間違えるのだ。


間違われるからといって別に腹が立ったりはしない。それは「この人と間違われるなんて不本意だ!」と感じる相手ではないからというのは大きいだろう。でも,わたしも子どもの頃に比べて鷹揚になっているのだろうとも思う。某AK日曜20時ドラマで前回(今から小一時間後に再放送)石坂へーちゃんが「名前にこだわるのは自分に自信のない証拠だ」といったような大変有り難い発言をなさっていた。そうなんだろうな。ってことは,以前と比べるとやや自信がついたということなんだろうか(それでも基本的には自分に自信のない小人ですよ,おいら)。


腹が立ちはしないが,同じセクションで席も近い人の名前を呼ばれるわけだから,すぐ側で呼びかけられた時はともかく,少し離れたところから呼びかけられた場合に,文脈上呼ばれるべきわたしと,本来その名を持つ二人が同時に反応することになる。これは「他の誰かと区別する」という名前の本来の役割を果たしていないことになるので,そこで発生するちょっとした間はいちいちおもしろい。


名前を間違われる理由として,わたしが普段(本来着用義務のある)名札の着用を横着しているので名前を覚えてもらえていないのではないかと考えていたのだが,先日,その(わたしがよくその名前を呼ばれる方の)女性に対して「ハタノさん」と呼びかけていたので,そうではないことがわかった。めんどくさいので名前を出してしまうが混同されているもう片方の当事者は「カブラギさん」という人で,音自体は間違えるような近似を示していない。彼女とわたしの共通点は,社員で女性であることぐらいしかないと思う。それとも,それ以外の何かが似ているのだろうか(髪型は多少同類型になってきたかな。でもわたしがショートボブだったころから働いているのだから関係ないだろう)。


ま,そんなこともありってことで。それにしても暑い。クーラー入れるか,微かな風で気分だけごまかしておくか。iBookのファンがうるさくなってきた。アームレストでやけどしそうだ。(12:25)