眠い頭で予告なんてするんじゃなかった


「ためらいの倫理学」は途中から斜め読み仕様になり,うしろ3分の1ぐらいは読んでいないのだが,残りを果たして読めるかどうか。自分の知的レベル(或いは語彙)が,辞書無しで読めない。国語辞典でわかりそうなことと国語辞典ではわかりそうにないことと両方あるのでかなり手強い。情けないことだが。本の題名に「倫理学」とついているような本がどこまでも平易であるはずもなかったか。


本題(の前に)。有言実行型どころか寧ろ有言不実行型なので,言ったが最後やらない,ということになりかねない。また,こういうことは,それについてぐちゃぐちゃと書いている暇があったら先にそのことそのものに取り組むべきであると,森先生もほうぼうでお書きになっている。


というわけで予告すべきでなかったのだが,一分の必要性を感じるので捨て置かないことにする。詳細は省く(さすがに眠いし),また,これはわたし自身への覚え書きであり,読者諸氏に向けての宣言ではない(ので読まれることを想定せずに書きます)。


上に書いたように不実行のフェーズに入りそうだけれどフィクションをぽつぽつ書いている(もう過去形なり完了形なりでもいいかも)。4年に1度の周期でやってくる「神」がおりてきているだけのような気はする。


だからどうというのではないしそれでどうこうしようつもりもない。将来のメシの種にしようといった野望があるわけでもないし,今のところ「たわごと」と違って公開欲求もない。


ただ,何年か書いて自分が楽しめる(書くことと読むことのどちらもだ)ようになればいいなぁと思っている。


今現在のレベルとしては主観的に見て小学校1年生の夏休みの宿題の絵日記(の文字部分)並かそれより下回るのではないかと思う。いろいろ破綻しているというか破綻以前の問題というか。


しかしそれは自然なことで,学校教育でもそれ以外でも創作の経験がほとんどない(小4のとき国語で「一枚の地図から」という単元があったけど)。わたしは,天賦の才なるものの存在も信じてはいるけれど,一方で,多くの場合「最初からうまくできるはずがない」のが普通であることにようやく気づきつつあるし,同時に,天賦の才がなくても,最初はうまくいかなくても,修練により或る程度の上達は可能であることも,なんとなくわかるようになった。全てに当てはまるとは言えないが。


わたしにはその才能がない,と,試してみる前から言うのは簡単だしよく用いる手法であるが,才能のあるなしは,では,どの段階で誰がどのように判断するのか,と。書いてみもせずに書けないというな。しかし,最初から書けるとも思うな。うまく書けるとかおもしろいとかのレベルじゃなくて,本当に書けないんだ。しかし,「書いてみようとする」行為を続けることで,もしかしたら,「書ける」ぐらいになるかもしれない(ならないかもしれない)し,そのうちおもしろくもなってくるかもしれない。


これは自分への試練として与えているわけではない(そういった向上心はあまりたくさんは持っていない方だと思う)。


ところで,「たわごとを書いて公開すること」はわたしの趣味だ。趣味でもなければ5年半も続かないだろう。よほどの暇人なんだろうという見解もあろうが(これは当たっている)。


遊興の為に外に出ればお金を使わないでは済まない仕組みになっている。そんな中,家から一歩も出ずに白い小さな箱の蓋を広げているだけで一日つぶせるというのは,一見安上がりな暇つぶしのように見えるが,この為に安くはないパソコンを買い毎月高い通信費を払っている。ADSLにしてから通信費が増えた。新聞は取っていないけれど新聞代ぐらいは払っているような気がする。電気代も課金されているし。


それで行っていることと言えば,大部分はテキストデータのやりとりだ。それも,やりとりする必要があるわけでもなければ何らかの利益が得られるわけでもなく。思ったほどコストパフォーマンスの高い暇つぶしではないように思う。


以前どこかで読んだ「趣味」の定義に感心して以来(そんなものを定義するのは森先生あたりかとも思われるが確証はない),趣味というのは見返りがないことに対して金・時間・労力を積極的に使う行為であると認識するようになった。それでいえばやはりこれは趣味としか言いようがない。上に書いたようにお金もそこそこかかっているが,何より費やしている時間については,いくらキーボード入力のスピードが手書きよりは速いからと言っても,累積するとちょっとしたものになっていることだろう。


どちらかというと書く行為が趣味の対象なので,内容の質はばらばらだし同じ事を何度も書いていることもある。吐き出された文章なんてでたらめもいいところだが,世の中何世代も語り継がれる作品ばかりが必要とは言い切れず,中にはあっさり消費され捨てられるトイレットペーパーの一枚の役目もアリだろう(読む人だって特別理由がなければ,他人の日記の内容を細かく覚えていたり過去ログを探したりしないだろう。だから,内容が被ってもいいのだ)。


それでも,自画自賛かもしれないが,この5年半で少しぐらいは「たわごと」にも質的進歩が見られているのではないかと思う(思いたい)。「進歩」度合いを具体的に挙げられないということは全く進歩していないのかもしれないが,少なくとも今現在わたしは書くことを楽しんでいるしアップロードしたあとで楽しんで読んでいる(そりゃ自分の興味のあることしか書いていませんから。そしてそこで発見される誤変換には目をつぶる)。


なので,わたしは何も歯を食いしばって修行しようというのではなく,単純に,「したけりゃしてもいいんじゃない? “できないからしない”などという意味のない言い訳を用意しなくてもさ」と自分に対して思っているのだ。報酬と引き替えでもなく義務でもなく,また,書くという行為そのものが趣味の対象なのだから,うまく書けるか書けないかは問題にならないのだ。


そして5年ぐらい(下地のなさを考えると5年じゃ短いか)して,或る程度自分が書きたいと思ったものが書けるようになり(これは無理だ。日記で全然できていないんだから),それを読んで自分がおもしろいと思えるようになればいいなあ,と。でも一足飛びにその段階へは到達できっこないので,まずは小学校1年生或いは幼稚園児の日記から亀の歩みを始めんとするものである。(2:54)