京の夜道と新選組には気を付けましょう


日曜日に「新選組!」の感想を書いた後,西本願寺及び油小路通りの位置について在京都のalchemiさんとやりとりをして,京都駅の南西にある大きめな交叉点が八条油小路であることを思い出した。2回生か3回生の時に某受験宿泊で某新・都ホテルに行ったとき(ちなみに相方はナオミ)に八条油小路の交叉点の標識を見て「『油小路』なんて変わった名前だなあ」と思ったものだ。油小路沿い西側に確かコンビニエンスストアがあってね。なんでそこに行こうとしたかは覚えていないけれど。


マピオンの地図(3000分の1に拡大すると何故か八条油小路の交差点の表示位置が違うのですが)によれば,国道一号線が堀川から油小路に変わるのがちょうど八条油小路。新幹線ガード下で堀川通油小路通が合流している。堀川が油小路を吸収するのではなく,それまで細かった油小路が堀川にとってかわって広い道路となって一号線になっているのは不思議だけど,もともとそうだったんだろう。久しぶりに「京都時代MAP 幕末・維新編」を取り出してみたところ,やはりどうやら油小路通りがずずいとまっすぐ通っていたようで,堀川通は(三叉路ではなく)ちょうど不動堂村の屯所の敷地の北から始まる通りだったようだ。


あとで堀川を斜めにのばして油小路につなげたんだろうな。


塩小路にしても油小路にしても,元「小路」だったのが今ではばかでかい片側二車線道路になっている例は幾らでもある。そうでなくても自動車が走るようになって道幅が軒並み拡張されているから,現在の道路幅の広い狭いについては,明治以降の道路計画やらなんやらによるものなのだろう,たぶん(京都民じゃないから知らないが)。


大河ドラマに出てくる道は,これは以前から思っていたことだけど,当時の道幅を再現したにしてもほんまに幅が狭い。池田屋事件の時の四条もたいがい狭かったし(先斗町なら今も狭いけど),先週の近江屋の前の通り,つまり河原町通りもどこの裏路地かというぐらい狭かった。今週の「七条油小路の辻」に至っては,なんちゅぅかほんっまに裏寂れた狭い道と裏寂れた狭い道の辻になっていて,あれの片方が七条通だと言われてもピンとこないぐらいだったし。テロップで「七条油小路の辻」って出ないとわかんなかったね。七条あたりが裏寂れていたかどうかはともかく,前述の幕末地図にちらっと載っている文久改正「新選京絵図」には七条通河原町通もそこそこ広い道路として描かれているんだけど。


しかし前述の本の解説によれば当時の河原町通りの道幅は2間(約4m)で現在の歩道ぐらいしかなかったそうなんで,あんなもんなんでしょう。絵地図の方が嘘(メジャな通りを広く描くとか)っぽいな。ちなみに河原町は西に拡張されているので,「坂本龍馬中岡慎太郎遭難の地」の碑のあたりは近江屋の入り口ではなく暗殺部屋の真下付近。そして近江屋の向かいは土佐山内屋敷だったそうで,それなら佐々木只三郎様は土佐屋敷の隣の建物の2階から見張っていたのか。ほんまかよ。


んー。狭い狭いいうても,七条も河原町も駕篭は通れていたし,河原町通りは人が横に2〜3人並んで歩いていてもすれ違えていたようだから,そんな極端には狭くはないのか。せせこましく見えるのは俯瞰のカメラ位置とか,町屋がびっしりで建物と建物の間に隙間がないこととか,道路から建物入り口までのポーチ部分(←なんていえばいいの?)がないこととか,二階がほぼ一階の真上に(引かずに)建てられていることとか,そういう理由かな。もちろん歩道や街灯もないし。


地名が出たところでもう一つ。以前サノスケが伏見→市中ダッシュしたときにも「昔の人はよく歩くよねぇ」と書いたけれど,今回伊東かっしーが七条醒ヶ井(がどこかは不勉強にして知らず)から高台寺月真院(大雑把には八坂神社と清水寺の間ですね)まで,テロの横行する物騒な時勢に供の1人も付けずに街灯もない夜道を提灯一個で帰ろうとしていた姿には,健脚の一言で片づけて良いのかどうなのか。


あたしだったら七条堀川から高台寺まで歩いて帰るのなんて昼間でもやだよ。バスに乗るか,バスなくてもタクシー拾うよ。流してないんなら呼ぶよ。だって,堀川から河原町まででも2kmぐらいあるだろう。そっから川渡って東大路までもけっこうあるし,高台寺っつぅことは七条から五条以北まで歩いた挙げ句に(真っ暗な夜道を)東山の方に分け入ってさらにてくてく歩くわけで,脚は棒になるし暗いし寒いし怖いし。ひぇぇぇ(泣)


伏見の寺田屋と壬生の屯所の間(推定6km?)をまるで同じ町内かのように悠々と移動している人達にとっては夜中だろうが一里やそこらは大した距離でもないんだろうかなぁ。暗いのもそれで当然という認識なんだし。ワンメータの距離でも往々にしてタクシー利用してしまうわたしが現代人にしても些か軟弱に過ぎるとしてもだ。


だけど,本当に大した距離だと思っていなかったか平気だったかというのはわからんよね。この時代に,深夜に会議終わってからタクシーを呼ぼうと思っても,電話もないし,時間によっては営業終了してるかもしれないし。誰かお供がいればお使いに出せば呼べないこともないだろうけど,ほんとに単身で乗り込んじゃったわけだからねぇ。歩いて帰るしか方法がないわけだ。暗かろうが寒かろうが遠かろうが(旧暦11月の京都にあの薄着)。


このドラマの中では,近藤先生が気を利かせて(おそらくはご近所であろう)屯所に顔を出して誰か駕篭を呼びにやって欲しかったなぁとは思うけれど。(なんだかんだいうても羽振りはいいだろう。でも彼らって全然タクらないよね。当時小型は存在せず逆立ちしても手が出ないリムジン並しかなかったのか?)。しかしどうやら現実のかっしーは醒ヶ井でいい加減よっぱらった挙げ句にふらふらと油小路を歩いていて(七条を歩いていただったかもしれん,忘れた)くわちゃんにぶしゅっと槍でやられて翌朝七条油小路の辻では凍ってたっていうんだから,全くもって,健脚で片づけている場合ではないと思うのだが。


明日は休日で嬉しい。お茶入れよう。夜中になって気が向けば昨日(今日未明)の続きを。それとも借りっぱなしの本を読もうかしらん。