映画「月とキャベツ」にまつわる雑感(感想とはちと違う)


昨日の夜もチャプタ切りながら速回し風味で見てしまったけれど,さすがにもういいか。ぐーぐるせんせにたずねてちょこちょこと個人の書いている感想を読んで回った感じだと評価はまっぷたつ。わたしはいいと思ったけれど,しかしあんたもファンだろうと言われると,ファンの定義を云々しだすとややこしいのでここではしないけど,最初から好意的に見ていることは否定できない。いずれにしても,今回はそんな話ではなくて。


映画,つまり映像の表現力には敵わないのかなぁ,と。敗北宣言を出したいような,だけど負けを認めてすごすごと引き下がるのも悔しいような。映像での表現と文字(文章)での表現が違うのは当然だから,勝ち負けではなくてきっとそれぞれの特性があるのだろう(と思いたい)けれど,わたしは文字ならではの良い点ってのが思いつかなかった(今でも思い浮かばない)。誰でも自分1人で書けるという作り手の都合以外で。


今のような日記を書くことには苦労していないけれど(尤も,表現や話題はワンパターンだし,表現できる範囲の物にしか目が行っていないだけということでもあるだろうし,また,書いていてしっくりこなくて(それはだいたいにおいて語彙の貧困さに由来する)試行錯誤することもあるが),それ以外の文章を書くとなると得意でもなんでもなくて,日記以外の何かを書こうと試みてみればすぐに書きたいようには書けないジレンマに陥るわけだ。以前夏川氏が「説明でなく描写」と書いていたその違いが,彼が言わんとしていること自体は現物を見ていないわたしにはわからないのだけれど,なんか,たぶんそういうことだと思うようなことはある。うまく書けないけど,例えば,黒い陶器のマグカップの中にハイビスカス&ローズヒップティが入っていてそこに上から光が当たっているときの黒地に深紅の透明な液体の色とかそこから想起されるイメージとか,全然書けない。


何かを描写しようとするとただ説明するだけになってしまう。それでは違う(足りない)気がする。映画で映像で一発で表現できているものを,その画面に映しこまれたパーツをひとつひとつ説明したところで,まず伝わる雰囲気からして全然違ってくる。全く違った方向から攻めるべきものなんだろうとちらっと頭を掠めるけれど,その方向は見えないし答えも出ない。それが歯がゆい。


いつだったか(というか頻繁に)森先生はそのエッセィに於いて,小説を読むのは趣味としてレアだとか,娯楽なら映像の方がてっとりばやいだか雄弁だか(←うろ覚え。「浮遊研究室」のバックナンバの「ご案内」にもあるとは思うけど)だとか書いていて,そういう意味では負けなんかなぁ,と。勝ち負けじゃないけど,勝ち負けでない文章表現が如何なるものかという答えが出ない。どんなにがんばっても勝てないじゃん,意味ないじゃん,だったらより適切に書こうなんて努力しても虚しいだけじゃん。


と,タイトル後の数シーンだけで“やられた”と思った。一面のキャベツ畑に青年が菜切り包丁でひとつキャベツを収穫する。その包丁をまじまじと見つめ何度か顔に当てた次のシーンで彼は車を走らせている。カーラジオから聞こえるDJの軽快な(軽薄な)喋りに忌々しげにスイッチを切り,切り替わったカットでテレビ画面に映るPVでキャベツのお兄さんがギターを持って歌を歌っている。そこまで(ラジオのDJ以外)誰も一言も話していないのに,それだけで,主人公の青年の持つ背景(過去や,今の生活状況や,今の心情や)が表せるなんて,なんだかなー,ずるいよなー。それを文章で説明しただけではけして同じにはならんよなー。だからってどう書けばいいんだよー。と。


全体通してセリフは少ない。ナレーションもテロップも一切入らない。登場人物が歌ったり踊ったりすることで語っている部分も大きいにしても,言葉ではなく,表情や仕草で登場人物は感情を表し,映像でストーリィが進行する。あたりの光景とシンプルなBGMを背景にして。


わたしは日記は長いし喋りも長い。なんでも言葉にしたがるし言葉ではっきり言われないとわからないといつも言う。いろんな意味で饒舌に過ぎる方だと思うが,人は,生活しているとき,誰かと時間を共有しているとき,立て板に水のように話してばかりいるだろうか。朝ドラのナレーションのように,朝ドラの会話のように,すべてを口に出して言うだろうか。そんなことを思った。


ちなみに監督は「木曜組曲」の篠原哲雄氏。