昨日のざれごとに対して道楽娘さんとalchemiさんが言及くださっている


http://www.ne.jp/asahi/home/douraku/diary2004-11.html

http://d.hatena.ne.jp/alchemi/20041104#p2


必見。嬉しいものです。自己完結した狭い世界でぐるぐる回っている自分の姿は些か滑稽なので。


それに対して気の利いたことや発展的なことを書くこともできず,ただ,なるほどなぁと感心して読むだけなんですが。うろこぽろぽろ。


物語を読んでも何とも思わない子だったわたしだけど,長じれば,自分の中の何か(過去の経験なり考えなり)を想起させられるものに出会えば感慨深いのだとわかる作品にも出会えた。そのことを忘れていたのは近頃本を読んでいなかったからかしらん。


alchemiさんも短歌の例を出しているけれど,道楽娘さんのバッハの例もそうだけど,読み手はゆだねられどころがあるわけで,それは言いようによっては深読みなんだけど(ただし深読みは読書に限ったことではない。わたしなんぞ毎週のように無闇な深読みを某ドラマに対して行っている。重箱の隅つついてあーでもないこーでもないと書きながら,ふと我に返って「案外制作側は特に意図していないのでは」と思うものだ),深読みしてはいかんということではないし,作者の意図と異なっていることが「間違っている」ことでもない(だから国語の「説明的文章」以外の読解問題は嫌いなんだけど)」。


なのに,書き手側の立場に立ったつもりになって(実際に立っているわけではないので)みると,何故か突然,如何にして誤解(?)させないように伝えるか,をやたら気にしすぎている。


昨日(今日の未明か)も書いたけれど,自分スキー(「アタシ好き」)だから,自分を知ってほしい,自分が思ったこと感じたことは誤解されたくない,という気持ちは強いんだろうとは思う。頑固なラーメン屋のおやじやコーヒー屋のマスターみたいだ。客が最初から胡椒入れようがミルクと砂糖入れようが,客には客の味覚や嗜好があるんだから,おいしく味わえればそれでいいじゃんね,という鷹揚さに,どうやら欠けるらしい(だからこそ日記が異様に長ったらしいんだ)。


時に,道楽娘さんが挙げていた「デートに似合う赤」は興味深い例だった。どんな赤なんだかさっぱりわかりゃしないんだけど,買ってみようかという気になるのはそっちだな。買った後で「思ったのと違う」と思うかもしれないけれど,それ以前に売れないと(買ってみないと)話は始まらないものね。


もう一つ,余談になるけれど短歌について。読むには読むで読み方があり,それは(生来のセンスもあるだろうし)或る程度は学習(経験含む)によって身につけるものでもあろうから,わたしの場合は読み方を知らないことが大きいわけでして。


さてさて,読みかけの「いつか記憶からこぼれおちるとしても」(江國香織朝日新聞社)の続きを読みつつ今日は早めに寝る。ルイボスティいれようかな。その前に夕食の食器を洗って明日の朝ご飯をしかけなければ。