「続き」と書いておきながらちっとも続きじゃないじゃん


近頃かなまると話をするときにネタでよく「その内小説で一発当てたい」と言っており,彼はその度に「だから『書いたら見せて』って言ってるのに」と返してくる。


言うだけなら誰でも何とでも言えるし,本気で思っているなら口に出す前に,或いは口に出しながら,行動が伴うものである。というのが(それに,かなまるに対してしか言わないし)わかっているからこそ,わざと大真面目にそんな風に返してくるのだろうが,しかし与太話は一応続く。


先日表現だの描写だの説明だのがどうこうと書いていたのは付随的な問題に過ぎず,根本的な(深刻な)問題として,ネタが思い浮かばないことが真っ先に挙げられる。日記は実際にあったことを書けばいいから,そりゃ簡単なのだ。実際に起こったのでないことや実在ではない人物(仮に95%まで実在のものをもとにしていたとしても5%は創造することになる)を書くのは,とても難しい。


「でも,妄想力はあるんだから,それを書いたらいいと思うんだけど」


それ,誤解だから。かつて「もしかして:腐女子」連中でアルコールを片手に莫迦話に興じていたときから今も変わらず,自分以外の人々の豊かな発想を目の前にする度に,わたしには妄想力が足りない(綺麗目な言い方をすれば「発想が貧困」「創造力が欠如している」等)と痛感させられ続けている。


尤も,妄想力があったところで,それを実際に文章に落とすのはそりゃもう容易為らざることではあるのだろう。書ききるのが大変,書ききってみることが大切,と,そんなようなことが「大人のための文章教室」に書いてあったような気がする。


もう一つ「大人のための文章教室」には,“書いたら人に読んでもらうのが上達のためのコツ”みたいなことも書いてあって(手元にないのですべて適当な感じになってますが),何でも,常に読者を意識することが大切なのだ,とか。


そりゃそうなんだろう。そこでわたしはかなまるに言うのだよ。「エロでもいい?」「別に気にしないよ」「そう言うと思った。でも,妙に文章の整合性を見て『ここでこういうことするのは必然性がない』とか言われそう」「言うかもね」。しょぼーん。


エロはさておき,自分の書いた物を人に見られるのって(想像するだけで)恥ずかしい。次に顔を合わせる時にどんな顔すればいいのか。こんなあけすけな日記を書いているわたしがこんなことを書くのはなんだか矛盾しているような気もするし笑止千万な気もするけれど,そうなのですよ。


もちろん,人に見せることが恥ずかしいとかいう心配は書いてからすべきことなんですけどね。さてはて,書きたいと思っているのかどうなのか。