広島,或いは讃岐うどん


讃岐うどんブームの火付け役は「恐るべき讃岐うどん」(ISBN:4101059225)という認識なのだけど,合っているかしら。


もとより「讃岐うどん」という言葉は知っていた。初めて香川(高松)でうどんを食べた時に行った店(たぶん高松市内)がセルフ方式の店だったので,その時は戸惑ったけれど,その後すぐ高校の隣にセルフ方式のうどん屋ができて試験中とか長期休み中とかによく利用したので馴染んでしまった。別にセルフ方式が香川県内もしくは「讃岐うどん」を謳う店にしか存在しないわけではない(その店が香川出自のフランチャイズうどん屋の可能性は否定しないが「讃岐うどん」を謳ってはいなかったと記憶している)。


自分が高松でうどんを食べたのは2回限りで,それだけで決めつけるのは早計であることは重々承知してはいるが,どうも,大騒ぎするようなものかしら,という違和感がその後のブームを見ていて拭えなくて戸惑っている。


確かに,「聖地巡礼系」,つまり,製麺所併設の店で打ちたて茹でたてを食べれば,それは目から鱗がこぼれ落ちるぐらいの違いはあるかもしれない。だからこそ巡礼者が多いのだろうしブームにもなっているんじゃないかとは思うのだ。


しかし,単に「讃岐うどん」と言ったときに,そこまで有り難がるようなことなのかと。悪い意味ではなく所詮は庶民の日常食だ。高松市内のうどん屋の軒数は多かった。(憶測だけど)香川県ではうどんの消費量は多いだろう。しかし店の数が多ければいろんな店があるだろうから,そのどれもこれもが,つまり讃岐うどんなら何が何でも大騒ぎということはないんじゃないかと思うのだ。宇都宮に餃子屋が多い(そうな)みたいなもんだろう。違うのか。


おいしくないという意味ではない。確かにおいしかった。しかし高校の隣のうどん屋もおいしかった。わたしの舌がグルメ仕様ではないのでわたしにとってはその程度だ。


なので,大学に進学してから「香川県出身者は余所ではけしてうどんを食べない現象」を立て続けに目の当たりにして,何を息巻いているのかと不思議だった。そんなに余所のうどんを毛嫌いしなくてもいいだろう,と。


とかなんとか言いつつ,わざわざ片道2万円払って食べに行くんだけどさ。


すっごく偏見で決めつけなのを承知で書くけど,すごぉく有り難がった人達って,単にうどん食べたことがなかっただけなんじゃないの? って思うのだ。わたしが幼い頃日常食べていたうどんは讃岐うどんにはほど遠かった(実家のデフォルトは工場大量生産系乾麺)けど,うどん屋では讃岐うどんレベルには至らなくても同系列のうどんに巡り会うことはできたような……気のせいかなぁ。


東京に住んでいて思うのは,うどんを食べる機会が少ない,うどん屋が少ないということ。杵屋はあるけど(けっこう好き)。スーパーで袋麺やアルミ容器入り鍋焼きも売ってるけど。しかしこの袋麺や鍋焼き系,メーカによってはえっらいどうしようもないうどんのことがある。つまり,香川県人が外でうどんを食べるのを拒絶する気持ちが分かるようなうどんということですが。


麺類食べるならうどんじゃなくてもラーメン屋もスパゲティ屋も蕎麦屋もあるし,家で袋麺使うなら中華麺で焼きそばでもいいし,その方がおいしいし。ほんとにうどんの消費量は少なかろうと推測されるものでありますよ。


そんでも,蕎麦湯が出てくるマトモな蕎麦屋が私鉄沿線の駅にかならず数軒あるんだから東京って天国だ。「この世の中にうどんじゃなくて蕎麦を好む人がいるのは何故だろう」と毎年大晦日に本気で不思議がっていた幼少期。あれは蕎麦のフリしてるけど蕎麦じゃないから。


ところで,この項を書いて気づいたのだけれど,わたしが初めて高松に行った(=屋島に行ったのもこのとき)のは大学1回生の夏ではなく高校2年の夏ではないか。でないとセルフ方式うどん屋との出会いの順が合わない。