私信3:長老(家)


気づけば相当似たようなルートを辿っているので,勝手に親近感を抱いてもおり,また先達として大いに励まされる存在でもあります。といってもほんの数年前まではまさかここまで状況が被るとは想像していませんでしたが。


のえ氏のときもそう思ったけれど,いろいろぐじゃぐじゃと慣習に拘泥してつまらんことを考えているときに誰かがさらっと実行してみせてくれると「あ,それもアリなのね」って安心できる。わたしは卵を立てるコロンブスにはなれん。誰かがつけた道で誰かのあとを着いていくよ。


なんか,かなまるの日記へのコメントを見ていて思ったんだけどさ。面識はない方もいるのだが,大学入ってからの彼の親しい交友範囲はわたしも一応話には聞いていてだいたいわかるのだね。大学以前の知り合いとなると途端に面識ある人は少なくなるし,話もあんまり聞いてなかったりするので,そこは緊張ポイントとして残されてはいるのだが。


逆のパターンはもっとで,大学外(卒業後もありますんで)を含めてわたしがひごろそれなりに付き合いのある友人知人で彼と会ったことのない人は数えるほどしかいないのさ。


でもそれはわたしだけだったりかなまるだけだったり,つまりわたしはかなまるの友人知人を知っているしわたしの友人知人を知っているけれどわたしの友人知人はかなまるの友人知人を知らない(勿論一部例外はある)。


だからどうってことはないけど,なんだろう。なんとなく不思議〜な気持ちになる。しかし人と人との繋がりというのはそういうものだろう。そうやって脈々と繋がっていたり,また時にはその繋がりが輪になって広がったり(広がらずにぐるぐるしたり)しているものなのだろう。


てか,この先こういう話題増えるのかなぁ。世の中他人の惚気ぐらいつまんない話題もないそうだし(と知りつついつも惚気てますが)あまり気が進まないのだけれど,そんなこと言いながらもしょっちゅうあれこれ書きそうだ。あー。若造がこれから飛び込む新しい世界に対してな〜んも知らない状態で初々しい心境だの自分では新発見だと思っている驚きだのをつづった文章というのは,(それが背伸びして書かれた物であれば尚更)後で自分で読み返したときに顔から火が出る恥ずかしさなので,ほんと,いやもう,それを思うだけで恥ずかしいのでやめておきなさいといいたいわけです(自分にね)が,何でも書いちゃう性分で困る。


ではまた,ねくすうぃーけん(前置詞わからん)。