遠くて生か近くて電波か
神宮球場は4月の平日のナイターとは思えないお客さんの入りようだった。火曜の試合(がらがら)はいうまでもなく,先週土曜の巨人戦と比べても明らかに多かった。それだけみんな古田2000安打の歴史的瞬間に立ち会う為に集まっていたわけだ。わたしだって,よほどのことがなければ平日に神宮に日参はしようとも思わないよ(そう決めておかないと恐ろしいことになりそうだし)。
自分が行こうが行くまいが打つときは打つし打たないときは打たない。2000本は積み重ねであって,2000本目そのものはただの1ヒットでしかない。なんだけど,2000本目は彼の野球人生で絶対に1度しかないものであること,誰かの(それも古田の)2000本目に立ち会えるかもしれない幸運はそうそうあるものではないことに気づいたら,ここはひとつ行かないわけにはいかんでしょう,と。
球場で生で見ることの利点の一つであり何よりの醍醐味は「その瞬間を共有する」ことだと思うので。共有するのは選手ともだしほかの観客ともだ。
ところで,当たり前だけど現地生観戦よりもテレビの方がいい面もたくさんある。だけど,球場に行って初めてわかるテレビでは見られない(わからない)こともある。それぞれ特長が違うからどっちがいいとは言えない。
例えば先発ピッチャーの出来云々はテレビで解説付きの方が絶対いい。内野バックネット裏ならいざしらず外野スタンドからでは球種もコースもわからんし,ストライクかボールかの判定もできない。この選手がどういうタイプで配球がこうでといったことにあーでもないこーでもないと口を出す「みんな解説者気取り」はテレビ観戦野球特有の楽しみかただと思う(そしてこれが楽しい)。また,ミーハー的見地からすれば,テレビだと顔がアップで映るというのもおいしいポイントだ。同じく各バッターのバッティングについても,調子がどうとか過去の成績がどうとかの解説付きの方がわかりやすい。
しかし同じピッチャーでも中継ぎや抑えの選手は,球場で見るとテレビからは伝わりきらない緊迫感があって相当しびれるものだ。バッターと違ってピッチャーはたとえホームゲームでも相手打者への応援を聞きながら投げるので,ただでさえ孤立無援に見えるもの。そこへ持ってきて,中継ぎ選手がマウンドに上がるのはしばしば相手チームが攻勢の時なので,スタンドのボルテージも上がっていて四面楚歌もいいとこの状態になっている。わたしはヤクルトのとある中継ぎ投手をべらぼうに贔屓しているのだが,もともとかなり贔屓してはいたものの,すっかり腰砕けになったのは去年球場で生で見たときのことだった。色々背負ってマウンドに向かう背中が好きだ(基本ミーハーの姿勢は変わらない)。テレビで見てると「それぐらい抑えんかボケ」と簡単に口をついて出るけど,あの状況はけっこう辛いんだな,と。
あと,外野の広さも球場に行けばよくわかる。狭いと評判の神宮で言うのも変な話だが「何をちんたら処理にもたついているんだ」と目の前の外野守備にいらだちを覚える反面,広い外野に人がぱらぱらっと3人という状況を見れば「あ〜,確かにこりゃ捕れないわ」と外野手を庇ってやりたい気持ちにもなる。
それと,これは今日見て思ったのだけど,生で見る盗塁は楽しいね(されるほうはむかつくがね)。
と,まとめらしいものもないまま,うやむやのまま夜は更けていくのでした。