母と子
日付かわって昨日のことになってしまったが,20日は母の誕生日だった。夜,らしくもなく電話をしたところ,不在だった。祖母と少し話をして,明日には戻るそうなので明日かけ直すと言って切った。さて覚えていられるか自分。
彼女に対してコミュニケーションを上手く取れないので直接は言えないけれど,母がつつがなく穏やかに健康に日々を過ごせたら,それに勝る望みはない。
生産年齢人口の親に対して子がそんな風な心配をすることは無礼失敬極まりない話だが,ここ数年の様子を遠くからうかがうに,ほとんど把握できていないなりにそんなに具合はよくないようで,次の1年こそはと願ってやまない。ちょうど年齢的に難しい年頃かもとは思うから,少し経てば自然に落ち着くかしら,と,毎年思っているんだけど,なかなか。
そしてもう少し経ったら経ったで,今度はもともと体力がない人なだけに体力面の心配も出てくるんだろうが。
しかし「いらん心配」は母(と祖母)の専売特許で,うちには「いらん心配」要員は充足している。わたしまでがいらん心配をしても,仕方がないのだ。
そうやって彼女の現状や将来を考える際に彼女自身や周囲の人間の視点および客観的な視点で彼女のいる環境を考えたときに,その実子はとても近い位置にあるものと考えられる。住んでいる場所が,とかではなく,彼女を取り巻く人物として重要な位置を占めているはずであるという意味において。しかし,わたしがわたしの視点で彼女のいる環境を考えるとき,そこにわたし自身の存在は希薄である。日常離れて暮らしているためにふだんわたし自身が身を置く環境の中で母がさほど重要な位置を占めてはおらずその裏返しで彼女の環境にも自分がいないものと考える部分はあるだろう。しかし彼女の行く末に対して気にかけてはいるし最終的には彼女の身内は彼女の両親か配偶者か子(つまり自分)しかいないというのもうすうす分かってはいるので,けして「関係ないから」というとらえ方を積極的にとっているものではない。にもかかわらず,どこか一歩引いた地点から冷めた目で眺めている感覚があるのは,距離があるのかないのか,それとも距離をおきたいのか。
世に「遠くの親戚より近くの他人」ということわざもあるように,必ずしも血縁が地縁に勝るわけではなく,血縁なんてなんの役にも立たないこともある。ただ,いずれにせよその環境にわたしがいるかいないか(重いかそうでないか)という認識の違いはお互いの気持ち(希望)の違いをうみ,それは簡単ではないいろいろなことをふくんでしまう。
で,まったく関係ないんだけど,今年は誕生日プレゼントを用意していない。プレゼントと称して実態は気まぐれに5年に1度ぐらい突然何かを送りつけるという迷惑行為。
ヒトは言葉で思考するのね。眠くてどうにも。自分が何を書いているのかどう考えているかが次第に拡散していった。わけわからん。
そしていつになったら旅行の話を書くのか。既に前半の出来事は記憶から抜け落ちかけているだけに早くしないとまずいんだが。