続々折田先生


はてなキーワード折田先生」の項からリンクされている「折田先生を讃える会」を見て思うに,折田先生張りぼてになってからの方がクオリティが高い。当たり前だが既存の銅像に対して人に見られない時間帯を縫って色を塗ったりパーツを取り付けたりするには限度がある。今は別所で時間をかけてこしらえたであろう張りぼてを搬入・設置するのみであるからして,歴然たる差が出るのは道理であろう(それにしたところでてんどんまんの細部の仕事の叮嚀さには感服するばかりであるが)。


当時は学生の愛敬と面白がっていた本人銅像への着色等は,いい歳になった今見返すと,関係各位が腹に据えかねたのもさもありなんと思う。些か悪戯が過ぎた。そして,悪戯することが第一義となっているため,仕上がりがもう一つ美しくない。像が撤去されて張りぼてが登場し始めてすぐは「所詮張りぼて張りぼて,本体に細工をすることに意味があったのに,完全な偽物を置いたのでは意味もないし工夫もないし面白くないではないか」と少し冷ややかに見ていたが,名前と看板のもじり以外はなんら折田先生を貶めることのない張りぼて像は,昔の銅像そのものを汚していたのに比べて実に害がない。こうして公共のメディアに取り上げられるまでになったのもひとえに,毎年のテーマ設定の妙,横の看板の文言の洒落方,塑像の仕上がりの美しさ,看板の裏の写真など,闇の地下組織の奮闘努力に寄るものと思われる。


また当局にとっては,汚される度に発生していた洗浄のための相当の手間と費用が不要となった今,構内にどこかの誰かが勝手に張りぼてを持ち込んで数日間放置されたところで痛くもかゆくもないのであろう。はりぼて制作側とパンキョー当局との間の抗争(或いは看板等を利用した応酬)も近年恒例となっているが,当局の意向が犯人を炙り出して然るべき処罰をすることにあるのか,はたまた「素」で落とし物(?)に対処しているのかがわからない。だいいち敢えてポコちゃんの写真を掲載して「折田先生像」と記述する必要は一切ないはずであり。


先代の偉人を讃えて銅像を設立する際の本来の目的を考えると,折田先生像は,たとえそれが張りぼてのポコちゃんの姿であってもてんどんまんの姿であっても,本来の目的をある程度は果たしていると言えよう。姿形が在りし日の折田先生とは似つかないことにさえ目をつぶれば,張りぼて像ともじり看板を目にすることによって,同時に本物の折田先生の業績も関係者の脳裏に焼き付いているはずである。まして傷も付かない(?)し汚されもしない。さすがに身内はいい気持ちはしないだろうから今の張りぼて像も手放しで褒め称えるべきではないとは思うが,ただ銅像を撤去しただけでは遠からず忘れ去られていたであろう第三高等学校初代学長の名が数年経った今でも毎年語り継がれているのは,絶えることなく張りぼて像が作られ続けているからではある。


つっても,折田先生の着せ替え(?)を楽しんでるのってOBだけだと思うんだけどね。