言語をおおづかみにとらえるための幾つかの視点


という予告タイトルだけ,お風呂にお湯がたまるのを待ちながら。本文は書かれないかもしれません。


久しぶりにイタリア語の話しをしたので。外国語については,習得してコミュニケーションツールとして使うことよりも,どういう体系で成り立っているか,それが言語間でどのように異なるかといった仕組みの方がより興味が強い。もちろん,使うことができる状態はとても素敵だとは思う(とくに日本語話者以外と話す機会や日本国外に出かけたときに強く思う)。思うが,たいていは仕組みのあらましがだいたいわかったところで満足してしまう。


理解することと使えるようになることの間にはものっそい大きな隔たりがある。隔たりというか,同軸上の程度問題ではなく異なる位相にある問題だと思う。ことばはその体系を理解していなくても使える。自分にとっての日本語がそうであるように。日本語マトモに使えてないじゃん,という意見もあろうが,その「使える」と「母語じゃないけど旅行のときに困らないぐらいには英語が話せる」の「使える」とでは,それこそ「使える」の程度に隔たりがあろう(これは同軸上の程度問題だろう)。


さて,お湯たまったかしら。