至福(酔っぱらい注意報)


昨日(回線の切れた状態で)買った小説がめちゃめちゃツボにはまった。ラッキィ。


あらすじと後書き読んで買ってるから外しはしないんだが(この前に買ったのも面白かった),期待の斜め上までもっていかれると嬉しい。


それはいいんだが,漢字が読めなくなっていることに焦りを覚える。十数年前とは基準が違うんだろうか,今は表外字ばりばりなんだね。


何らかの基準を設けようとすると今でも常用漢字ぐらいしか適当な基準がないわけだけど,常用漢字でじゅうぶんかというとそうとは思えない(これは個人的な好み)。制定当時とは異なり手書きできる必要はない時代になったんで,読めればいいとは思う。とはいえ,じゃあなんでもかんでも閉じられるものを片端から閉じていくと際限がない。その辺,かえってバランスの取りづらい(基準の設けづらい)時代にはなっているのかも。


わたし自身は,IMEの漢字変換の物珍しさを面白がっていたころとは考え方が変わっていて,今は,どちらかというとかな原理主義者に近いものがあるんだけども,それも個人的な考えにすぎない。それに,原理主義になって名詞以外の和語を全部ひらいてしまうと今度は切れ目が分かりづらいはなはだしく読みづらい文になる。読点が多いのは美しくない。そのへんの兼ね合いはむずかしいところ。


もっとも,原理主義がどうの好みがどうの考え方がどうの言ったところで,実際に書く文はATOKの第一変換にお任せだし読点だって右手中指の勢いにお任せなので,言うこととやることとはまったく一致していない。


全体の初出にしかルビがふっていない表外字を読めない,というのは,年齢のせいもあるのかなあ。前のどこに出てきたかわからないとか。


でも,それが表外字であろうがなかろうが,一度ルビがふられた字を二度目に出てきたときに読めないのは,漢字が読めないのではなくて言葉を知らないんだと思う。それが漢字で書かれていようがいまいが,その文脈で出てくる言葉は限られている。それを読めないのは漢字を知らないのではなく言葉を知らない。漢字を読めないことよりもそのほうがよほど恥ずかしい。


やっぱりもう少し本を読んだ方がいい。どう考えても。


それでラノベ(BL)に精を出すのが果たして適切な手段かどうかはさておき。


娯楽小説を読むときは外で酒を飲みながら,と近頃は決めているので,外食費がかさんでたまりませんの。でも,おいしいごはんを食べておいしくお酒を飲みながらふにふにと恋愛小説を読む時間の幸せなことといったら。