ハコネっぽいもの(断片)


インスパイアもとはこのあたりとか,いろいろ。
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スポーツ見るもの語る者〜フモフモコラム:陸上新名言:「1区から4区はもういらないよ。5区だけでいい」(瀬古利彦) スポーツ見るもの語る者〜フモフモコラム:陸上新名言:「1区から4区はもういらないよ。5区だけでいい」(瀬古利彦)


はてブの「ブログで紹介」リンクをはりつけたら,タグまみれでびっくりです。それはさておき。


テレビ離れ(というかテレビ終了のお知らせカウントダウンというか)が進む昨今,加えて休日の朝っぱらという悪条件にもかかわらずとんでもない視聴率を叩き出しているらしい「ハコネ」。毎年さまざまな感動のシーンが生まれているらしい,というのはもっぱら事後のネット界隈で得る知識で,わたし自身はこれまでの人生においてレース中にリアルタイムで自主的にハコネの模様を追ったことは一度もありません。家や出先(およばれ先)等で目に触れる機会はありますが,当然それほど長い時間にはなりません。今年も,2日(往路)は終始夢の中で,3日(復路)の朝少しだけ支度途中に(夫がテレビをつけたので)テレビで見た程度でした。


嫌いなわけでも,頑として「興味がない」と言い張るつもりもありません。印象レベルですが,ハコネに限らず「駅伝」と「マラソン」は日本で広く好まれて見られているようです。わたしの実家でも,シーズンになると日曜の昼間は毎週のようにテレビ画面で誰かしら走っていた気がします。ただ黙々と走っているだけの時間がほとんどを占めるのに,なぜかつい見続けてしまう。黙々と。これだけの視聴率があるということは,そういう人も多いのではないでしょうか(もちろん観点を持って主体的能動的積極的に観ている人も大勢いるのでしょうが,何百万・何千万人もそんな人ばかりいたらびっくりだ)。大部分は黙々でも,順位が入れ替わるなどの見せ場もあります。


一方で「人がしんどそうに走ってるのを見るのの何が楽しいのかさっぱり分からない」という感覚の人もいます。そういう声も大きいし,さもありなんとも思ったので,わたし自身も次第に駅伝やマラソンを見ることから遠のくようになりました。


どのみち休日は宵っ張りの朝寝坊でお昼にならないと起きないので,早朝からレースが行われるハコネを見るにはよほど強い気持ちがないと無理。「なんとなく好き」レベルでは話になりません。まして。


ところがここ1〜2年,ネットのニュースやブログ,ソーシャルブックマークなどで間接的にハコネに触れてみて,ようやく「もしかしてハコネ面白いかも」といくつかの方面に興味が湧いてきました。特に駅伝は戦略あり戦術あり駆け引きあり采配あり(一緒か)チーム編成あり(だから一緒だってば)個人の能力あり団体の能力ありと,見所が多いようす。色々な数字も出るので,それらをもとに事後の検証・分析もさまざまな角度から行われていて,そういうのはわりと好きなので興味深い。


でも,実際にそれらの記事を読んだり今年少しだけ見たときに胸に浮かんだ率直な感想を思い起こしたりすると,やっぱり来年もリアルタイムでは見ないだろうと思います。興味の対象はリアルタイムを追うことそのものよりもどちらかというと後でみんながあーだこーだやっていることのほうが強いし,この競技に関する観戦スキルもないし,「ハコネ」に対する心情的にも単純に「よし,来年は見るぞ☆」にはなりそうにありません。


包括的な意味での「ハコネ」を「好き」かどうかで言えば,あまのじゃくでひねくれているので,あまり好きじゃない。これは「全日本興味ない」と同じようなロジックです。

レースをしているのは生身の人間


スポーツ競技においては,選手を偽物化(?)して表現することが当たり前に行われていて,どちらかというとそれが標準語彙になっています。「故障」とか「再調整」とか,まちがいではないけれど一般には他の表現をつかうでしょう。最初は意味も分からなくてびびりました。敢えて突き放した表現が生む効果にメリットを感じているけれど,行き過ぎると(または方向性を誤ると)「人」に対するにしてはいささかキツすぎる表現になってしまっている場合もみられます。こういうのは読む(受け止める)側の感じ方次第なので,たとえば選手本人がどう感じるかはわかりませんが,自分も人なので,そしてこの上なく運動音痴で子どものころの集団競技での良い思い出もないので,いくら他人事だからってその言い方はないだろうとだんだん辛くなってきます。


あと,しんどそうな顔で走ってるのを見るのも,走るのが得意で好きだから大舞台で走ってるのだし,一見しんどそうでもそれはわたし自身の「走るのしんどい」感覚とは全然違うはずなんですが,どうしても自分の過去の長距離走での辛さ・横腹の痛さが頭をよぎる。ゴールした瞬間(や次走者に交替した瞬間)に倒れ込むのも,そこで倒れる=ゴールに照準を合わせて力を使い切った=最適解と頭では理解できても「倒れるまで走らなくても」とつい怠けた感想をもってしまいます。


まして本当にふらふらになってスピードも落ちてしまっていると,つまりはうまい具合に力の出し具合を配分できなかったのか当日のコンディションと走り方が合致しなかったのか,いずれにせよそれが生身の生き物でなければ何とでも言えますが,生身の人間である以上,どういう気持ちでそれを見ていればいいのかわからない。


生身の人間だから,予期せぬ何かがあるから,面白い,というのは根底にあります。そこにドラマが生まれそれに感動を覚えもします。ハコネには多くの生身の人間のいろんなものが詰まっていて,それが人を引きつけるんだろうなと今更のように気づいてみるものです。

シンプル


中長距離に限らず,徒競走というのは,ルールもシンプルで結果も明白に数字で出ます。ただ駆け比べをして目的地までより早く着けばOKというだけ。速さを競う競技にはほかに競馬・競輪・自動車レースなどがあるが,道具を使うそれらが伴う難しいレギュレーションも徒競走にはありません。


だからこそ誰にでも受け入れられやすいのでしょう。「する」のも「見る」のも。多くの人は徒競走の経験を持っていると思います。誰しも経験者だからこそ,「速く走る」ことの大変さ,すごさが実感しやすいし,走っている人への感情移入もしやすいのではないでしょうか。


でも,それは多分に誤解や余計なお世話を含んでいるかもしれません。上にも書いたように,徒競走の経験があるからといって,その内容や選手のメンタリティは必ずしも見ている「自分」と同じとは限りません。マラソンだって駅伝だって,競技スポーツにはプロ(という言い方でいいのかわかりませんが)競技者なりのきめ細かな準備や作戦があり,一見「ただ早足競争をしているだけ」でも小学校のマラソン大会とはきっと違うはずです(違わないかもしれません)。シンプルであるがゆえにそれをまぜこぜにしてしまいがちではあると思います。それが良いとも良くないとも,わたしにはわからないけれど。

平等と不平等,公平と不公平/ルール・レギュレーションとその変更


今年のハコネは,5区だけで決してしまうのがどうこうという内容で一部盛り上がりを見せているようです。徒競走に難しいレギュレーションはないといいながら,ゴールを決める=距離を決めることは必ず行われるし,ロードレースの場合はコースの設定によって走り方(駅伝は人材の投入の仕方)が左右され,結果に影響します。


これが個人のタイムレースで個人表彰しかない競技なら,5区の人はただ彼個人の能力を褒めそやされ,持ち上げられ,翌年の記録(の伸び)や将来に純粋な期待を寄せられるであろうに,と,思わずにはいられません。「速ければOK」で速さ比べをしているのに速いことが問題視されるというのも,妙なものです。そりゃ,彼以外の全ての競技者(走る人だけでなくサポートする人も含め)は彼に勝たなきゃいけないし彼の対策をしなきゃいけない。それは当然ですが,たとえばトラック競技のように一斉に並んで同一に近い条件でせーの・どんで比べる競技なら,「彼に能力を発揮させない」対策を取ることは難しく,「自分がタイムをより伸ばす」対策をするしかないように思います。


でも駅伝はトラックじゃないし一斉にせーの・どんでもない。そういう仕様の競技である以上,レギュレーションをいじることを不当な対策とは考えません。競技のルールに則って範囲内で対策を講じているので,外れてはいないのです。


それにしても,順位や勝ち負けを争う不平等・不公平の極みみたいなことをやっているのに,条件の平等さ・公平さをお題目に時に熾烈な場外戦が繰り広げられるのはスポーツ競技の七不思議の一つですね。


それは成り立ちからして仕方のないことかもしれません。ルールができて初めて競技は競技として成り立ちます(名前がつく)。そのルールを遵守した上で行うという点において,スタート地点は平等です。平等じゃないと競技じゃない。なので平等な前提の上で不平等を争うというよくわからない構造をもともと持っています。


全ての競技者が遵守すべき前提はより平等・公平であるべきと考え,結果はより不平等(もちろん自分が一等)でありたいと願う,そのジレンマ。いったい平等にしたいのか不平等になりたいのか。


ルールやレギュレーションに則っているというところが平等なのであって,ルールやレギュレーション自体は必ずしも平等ではありません。どうしたって全ての人に公平な条件はつくれません。でも,前提なのだからより平等になるようはかるべきという考え方はもっともで,それはお題目として使われることになります。


最終的には自分が「勝つ」ことが大きな目標・目的である以上,自分に有利な条件がいいに決まっています。だから,それぞれの競技・種目・大会・カテゴリによって都度さまざまに設けられるレギュレーションでその是非を巡って争いも起こるし,場外戦の結果しばしば変更もされます。


だけど,ヒトが行っている以上,そんな厳密な条件を設けるのは無理があります。前提の諸条件がアバウトな競技はいくらでもあります。マラソンなんて,同一大会でも人によって走る距離が違う(スタートライン横一線には並べていない)し,採点競技のように採点者の主観を排除しきれない競技も多い。スポーツ競技の結果って,案外雑で不平等な条件で出されているものです。スポーツ競技なんて良くも悪くもその程度です。


その程度と気持ちを軽くもてればいいけれど,スポーツ競技の結果って不当に重く受け止められ絶対視されがちでもあります。そしてたいへん残念なことにスポーツは決められた規則の上で(それがアバウトでも)出された結果が全てなので,それが不服ならその規則の中でよりよい結果が出るように努力するか,規則を有利になるように変えることしかできません。良し悪しや好き嫌いの話ではなくてそういう構造だろうなと思って見ています。

「する」ものか「見る」ものか


「見て楽しむ」レースとしてのおもしろさなのか,選手個人の走力をはかるものなのか,団体競技として所属団体の勝利を目指すものなのか。ハコネにはいろいろな要素があり,目指す方向・あるべき姿が必ずしも一致するとは限らないそれらをバランスよく成り立たせるのは,難しそうだと感じました。


特にアマチュアに区分される競技において,競技者である選手とそれを見ている非競技者の観客(視聴者)の構図やそのあり方は,ここ何年も抱え続けている命題です。答えは出ない。

おわりに


このように断片的におもうことはあるけれど,陸上も門外です。スポーツ(見る方)にかんして,ほんとうはヒューマンドラマが好きなくせに好きじゃないフリをしつづけているんですよね,わたし。自分自身の内面に対しても嘘をつきつづけているので,何がほんとうで何が嘘かだんだんよくわからなくなってきました。