BIOにかえて

最近の興味関心の対象

  • バレーボール

    インドア男子6人制ほぼ国内で大学以上。詳細後述。

  • プロ野球東京ヤクルトスワローズ

    自称ファン歴は20年強。意識が強かったのは1992〜1995年ごろ。その後事実上のブランクを経て,球場に足繁く通うようになったのは2005年ごろから。その後も年によって変動あり。特定の贔屓選手はたぶんいない。

  • BUCK-TICK

    高校時代に友人の影響もあって軽いファンをしていた。高校を卒業して友人達と離れ,SSLを最後に忘却の彼方に追いやっていたが,2006年の6月にプロ野球板にスレが立って出戻った。とくに上手の2人を偏愛気味。

  • 歌舞伎

    年に1度は見る目標。初めて見たのが海老蔵襲名披露の南座顔見世だったなんて,このご時世口にしづらい。専ら尾上菊之助目当てなので菊五郎劇団に偏り気味。好きな演目は「NINAGAWA十二夜」とも……言いづらい。歌舞伎じゃねーだろ的な。どちらかというと世話物が好きです(ごまかした)。

数年前は着物着るのも趣味でしたがここ5年ぐらいはさっぱり。

バレーボール関係の来歴


プレー経験は0。学校の体育の授業のみ。


今の属性は選手ミーハー。楽しみ方は現地観戦が中心。


技術とか戦術とか戦略とか,何も分からないまま見る目なんぞないまま。フロントオーダーとバックオーダーはその言葉も知らないし,レセプション側のアウトオブポジションがあることも知らず,テンポ何それAパス何それ,もちろん攻撃の種類(コンビの名前?)も知らない,見ても分からない。それでも10年ぐらい(その大半を1人で)楽しめてる。


そもそも1980年代後半から1990年代前半の男子バレーボール界というのはけして一部マニアの嗜好するものではなく,広く女児・女子生徒の人気を博していたと思われる。小学校時代はクラスの女子児童のほとんどがバレーボールをしていて,全日本男子選手にアイドル並みに憧れていて下敷きに切り抜きが挟まれたり特に好きな選手がダレソレといった話題が頻繁だった。非プレーヤーでテレビチャンネルにも制限のあったわたしはその話題には積極的には参加していなかったが,門前の小僧状態で人気選手の名前と顔は把握していた。全日本選手として具体的に名前を記憶している最初が,おそらくこの時期の選手だろう。ソウル五輪前後*1


中学校に上がると新たにできた友人らと共に概ね文化系ヒキヲタ生活を満喫していたが,3年のときに仲良くなった同級生がプロ野球やサッカー*2が好きな人で,彼女の影響でスポーツ選手ミーハーの道へ足を踏み入れることとなった。その後塾でバレーファンの同級生と仲良くなり,バレーボール方面も多少気にかける流れとなる*3


件のバレー好きの塾の同期とは別の高校に進学していずれ交流も途切れたが,バレーボールに関しては,国際大会時期には高校の友人との話題にも上りそれなりに盛り上がっていた。このバルセロナアトランタ期の紫と青の不思議なぼかしユニフォームが,わたしの記憶にある「動いている」全日本男子の最初の姿かもしれない*4


当時Vリーグなり日本リーグなりのファイナルは毎年NHK総合で(確か録画放送で)放映されていたと記憶している。第1回Vリーグのファイナルをテレビで見たのを覚えている。佐々木太一が一年目だったり,竹内実が移籍直後だったり楊成太が天井サーブを打っていたりした映像が,国内リーグの記憶の原点になる*5


そのころは,今と比べるとゆとりのあるユニフォームで(すでに半袖が主流ではあった),もちろんサイドアウト・15点の時代。わたしぐらいの世代だと,バレーボールが「3回以内で相手コートに戻す」「サーブ権を持っているときに点が入る」「1セット15点先取」の競技であることぐらいは,特に興味がなくても知ってる人が多かったんじゃないだろうか。


それから90年代後半の潜伏期間を経て,1999年の暮れに突然出戻る。


出戻ったときに一番驚いたのは,ラリーポイント・25点に変わっていたことで,すぐに慣れたものの最初は競技が定義からひっくり返ったぐらいの衝撃を受けた。


出戻ったきっかけは今となってはもはやどうでもいいが,1999年のワールドカップをたまたまテレビで見てたまたまはまり,明けて2000年のVリーグは今の夫が当時住んでいた寮でNHK-BSの放送を見せてもらいつつ京都大会@府立体育館(2/26ごろだった)で生観戦デビューをし*6,3月初めごろの水曜日の大阪大会@大阪市中央体育館*7に行き,2度ほど箕面に某チームの練習を見に行き,Vリーグファイナルを見に東京に行き*8,5月に黒鷲に行き,枚方辺りでやってた全日本の練習見学にも行った*9


次の00/01シーズンの開幕直前に自分が東京に来ることになり,テレビ観戦*10メインに生観戦は東京(近郊)とファイナルと黒鷲という,その後数年続く生活スタイルができた。V開幕から黒鷲までが対象で,サマーリーグやVカップ*11までは見なかった。また専ら現V・プレミアリーグに限られていて,現チャレンジとか大学とか高校とかは対象外だった。全日本ももちろんシニアのみで,それもオリンピック(含予選)や世界選手権,ワールドカップなどテレビ放送がある大会は多少気にはかけるがさほど熱心ではなく,ましてWLを見るほどではないのでつまり夏場は完全にシーズンオフだった。


このように,きっかけは確かに全日本だったのだが,早々に優先度がリーグ>全日本に移行したクチだった。背景にはチームの恒常性・連続性があるように思う。Vリーグを1シーズン経験して,全日本は選抜という認識になった。その認識の正否はまた難しい問題ではあるが,今でも根っこにそういう意識がある。


話が逸れるが,プロ野球畑でいると,国内でリーグ戦を長期間戦うスタイルに親和性が高いのかもしれない。もちろん人によるだろうけれど,個人的には,たまの国際大会や短期間の大会よりも重視しがち。プロ野球プレーオフはそれはそれで楽しく見ているが,あくまでシーズンの延長にあるもので,最初から短期のトーナメントだと,どうだろう。お祭りっぽい意識になるんじゃないかと思う。


とはいえ,そんなに情熱もないし惰性だし,東京で試合がないときは興味ないし(開幕が早くて年内が大阪寄りだと全く萎える),NECの成績が振るわないとますます興味が失せるし,と,限りなくゆるかった。年25回観戦なんてとんでもない。


その代わり,今と違ってテレビ放送はたいてい観ていたしマメに録画していた。テレビ放送のある試合を生観戦したら帰宅後に録画分を見直していたこともある。Vリーグのライスコや某所の実況板にもお世話になっていた。近くでチャレンジの試合があっても,たとえテレビ放送がなくてもライスコでプレミアの試合進捗を把握する方を優先していたので,行こうとは思わなかった。


どこか1つ贔屓のチームを持っておくというのは,リーグ全体を見たり興味関心を維持するために大きいと思う。それがないとモチベーションはかなり下がる。プロ野球チームほどの規模になると,贔屓チームでさえも知らない選手がたくさんいるし,他チームの選手はコンスタントに試合に出てる先取でも疎かったりするが(2005年ごろは詳しかったんだけども最近さっぱり),それでもどこか1つ拠り所があれば,無知なりに楽しめる。まして,10ないし8チームしかないVリーグ,入りたて数年でベンチ入りしていない選手でも,顔をみればだいたい名前ぐらいはわかってた。


Vリーグに於いては初年度(第6回)から比較的NEC寄りではあったが,自分が東京に来たことで近場の見に行ける試合に必ずNECが出ていたことや在阪球団と距離ができたことで,贔屓が強まったのではないかと思う。あと1シーズンでも長く関西圏に住んでいたら,もしかしたら今頃サントリーのファンをやっていたかもしれない*12


随分話が逸れてしまった。ここからは長くない。


次の転機は2008年から2009年にかけて訪れ,大きな観戦スタイルの変化をもたらした。清水・福澤両選手が揃って在学中に北京五輪のシニア代表に選出されたことで,重い腰を上げて長年躊躇っていた大学リーグ戦に初めて足を運んだのが2008年の秋季リーグ。全カレも初めて見た。明けて2009年がチャレンジリーグの初観戦だったと思う(記憶違いかもしれない)。


観戦の場を広げようとしていた矢先に起きたのが,2009年春のNECブルーロケッツの休部(事実上の廃部)騒動。現実逃避のように2009年の大学春季リーグにマメに足を運びながらも*13,世の不況と現実は残酷で,5月31日をもってそれまで10年応援していたチームがなくなった。


しばらくは在籍選手の進路情報さえも完全にシャットアウトしていた。2009年の秋季リーグは1試合も観に行かなかった*14。全カレでようやく観戦を再開し,チャレンジを見たりプレミアを見たりしつつ,ご近所試合数と期間の詰まり具合が効いて意識の上ではメインは関東大学リーグ男子1部にシフトした気がする。


これは2010年のいつかに書いたのだが,ブルロケがなくなったことで,かえって,いろんなカテゴリのいろんなチームやいろんな選手を利害関係なく純粋に楽しめるようになった。好きな選手も好感を持っているチームもたくさんある。いささか若手厨のキライはあるが,今の雑食生活を楽しんでいる。


それはそれで自分にとって良かったんだろうなとは思うけれど,それでも心の奥の哀しみは全く癒えていない。さっきもNLPのくだりを書きながら涙が出てきた。だから,現状どうみても某大担当や某選手ヲタだけど,公には「特定の好きなチームはありません」と言っていたい。特にプレミアについてはその枠にほかのチームを据える気持ちにはまだなれない。どのチームも敵さんだものと思ったり,詮無いことをと自嘲したりしながら,自然とプレミアへの関心が薄まっていくのは,仕方のないことなのかなあ。

*1:真鍋,中垣内,青山繁,当時大学生だった南克幸あたり

*2:当時プロリーグはなかった。FIFA・W杯アメリカ大会の予選が行われていたころで我々の話題も代表が中心

*3:南さんが実業団に入って云々という話はおそらく彼女から聞いた。「実業団」の意味するところが分からなかったものだ

*4:松田明彦,中垣内,大竹,青山,南,泉川などがいたのではないかと思われる。

*5:たしかサントリーが優勝した。河野,大浦,サムエルソン等

*6:このときは1人で行った。思えば最初から1人観戦だったのね

*7:記憶が定かでないがたしかサントリー×富士フイルム

*8:後にも先にもゆいいつの夜行バスで,自分で宿泊手配したのもこのときが初めてだった。どっからこの行動力が出たんだろう

*9:新幹線でな。シドニー五輪最終予選前の合宿かな。

*10:アパートにBSが入ったのが大きかった

*11:一時期そういうのがあった

*12:なんたって唯一練見に行ったチームだ

*13:皮肉な話だが,春季の最終週で初めてNLPを訪れた。まだブルロケのマットが強いてあって,ガラスケースにはわたしたちが折った青いロケットがおさめられていた

*14:行きたくなかったわけではなくタイミングを逃したりインフルで繰り上げられたりといった事情の方が大きいのだが