下書き以前の断片的な


「負けはしたけれど」が感想の枕に来る試合がある。昨日のヤクルト×阪神は「負けはしたけれど,最後追い上げて面白かった」。ユニバ*1の対ロシア戦は「負けはしたけれど,前日から大幅にメンバーをかえる采配が見られて『現監督そゆことできるんだ』と明るい材料だった」。もひとつユニバの対イラン戦は「負けはしたけれど,心配してたほにゃらら選手の数字が良かったのでちょっぴり安心できた」。


つまり,結果的に勝敗のプライオリティが低いケース。これは同じ試合の同じ結果であっても,やってる人にとってと観てる人にとってで大きく違うだろう。


これはわたしの見方だけれど,スポーツ観戦はそれ自体がレジャー。もちろん贔屓チームがあればそこが勝つに越したことはないけれど,トータルで自分が楽しめることがいちばんの評価軸にある。


ことに,さきにあげた例の最後の1つは,言っちゃならんことのように思って自分を縛っているが,そういう感情が自然発生するのをとめるのは難しい。


誰かに直接非難されたことはないのに,お気に入りの選手の出場の有無や活躍の有無にこだわりその一点のみで全体を評価するのはイカンということになっていると自分で勝手に思っている。ここは掘り下げない。


そういうの,息苦しい。



やってる人か見てる人かわからないけれど,いずれにせよ,結果論ではある。たとえば,数日の流れの中で見たときに「今日の負け方は悪くなかった」「大敗しすぎて明日には引きずらない」「今後に向けた目処が立ち,収穫があった」。1勝がとてつもなく重い試合と,そうじゃない試合はあるだろう。


事前から「この試合は結果だけを最優先すべきではない」とされているケースもある。サッカーで言えば,ワールドカップイヤーの真ん中,多くの競技ではオリンピックイヤーの真ん中。新しい選手・システムを試すとき,といった意味合い。きりんさんがやってるきりんカップなどは,国際Aマッチである一方で練習試合的なにおいを感じる。


あとは,育成年代的な。こうして高校野球の話題が盛り上がる季節になると必ず付随して発生するエースピッチャーが無理しすぎて選手寿命短くしてるんじゃないの説やら,野球留学の是非やら,秋になると沸き起こるプロとアマチュア(社会人・大学進学)とどっちがいいのとか。昨日ちらっと書いた6人制バレーのフリーポジションもそういった色合いを背負っている。この辺は選手個々の技能の上達や今後の競技活動を懸念する側面とは別に,スポーツマンシップやら学生らしさやらという,競技のコアな部分からは少し離れたところで,勝負優先を美しくないものと考える力学も働く。


でも,やってる人にとって,負けていいって思える試合がどれくらいあるかしら。少なくとも,負けてもいい(からこの課題に取り組む)というメンタリティで臨める試合は,わたしのような一見る専が想像するよりもずっと少ないだろう。数年先のことなんて考えてなくて。自分のことでも自チームのことでもない,将来のにっぽんのその競技の行く末みたいな壮大なところまで視野に入ってる選手は,そら,いるにはいるだろうけど,みんながみんなお国のために滅私奉公してスポーツやってるわけじゃなかろう。


自分が巧くなって試合に勝って自分に自信がついて,いくらかの野望が叶えられて,そんな身近で具体的な目標を目指すのを否定はせんよ。社会主義国家はオリンピックに強かったよ。でもあの方式はわたしは望まない。その一方で,それでも代表に勝ってほしい気持ちは強いし,競技人口が増えてお金もたくさん入るようになってほしいとも思う。だけど代案は出ない。


勝つことで得られるものは勝つことでしか得られない。そして,負けることで得られるものを受け止められること。

*1:ここでは断りのない限り排球男子