1995年という年


兵庫県南部地震から今日で18年が経過した。当時わたしは子供だった。岡山県に住んでいたわたしの身の回りには被害はなく,ただ多少の地震体験は伴った。


被害を受けられた方やもっと近くでダイレクトに経験された方,大人だった方には,この先の記述の軽さに何を言っているのかと不快に思われるかもしれないことを,あらかじめお断りしておきたい。


記憶から1995年を探す。事実関係は敢えて調べずに。大きな事から小さな事まで。


1月兵庫県南部地震。後述。


3月地下鉄サリン事件。報道は加熱した。しかし,西日本ではまだ震災の爪痕が深く,東京の話題の分量が少なかったのかもしれない。自分には直接関わらない遠い世界の出来事としてとらえていた。東京は前年の修学旅行でわずか1日歩いただけの,遠い街だった。


6月ごろか。BUCK-TICKのアルバムSIX/NINE発売。似合わない黒服に身を包んで背伸びしてライブに行った。


新世紀エヴァンゲリオンのテレビ放送は,放送当時は存在も知らなかった。


秋,プロ野球オリックスブルーウェーブパ・リーグ優勝。あの年のオリックスはユニフォームの袖に「がんばろう神戸」のワッペンをつけていた。もともとは優勝から遠ざかっていたチームだったと思う。そのオリックスがリーグ優勝を果たした。それは奇蹟にも見えた。イチローが初めて200本安打を放ったのもたしかこの年。1軍に定着したばかりでの快挙だった。その後の偉業の数々は記すまでもない。


日本シリーズ野村克也仰木彬の監督対決だった。そして空気を読まないヤクルトスワローズの日本一。


11月日本でWindows95発売。徹夜の行列ができてニュースになった。うちにパソコンが来た(父親が買った)のも,たしかこの年。前半だったかな。95発売前でOSはWindows3.1。メーカ独自のランチャーがついていたころ。このときはまだまだスタンドアローン。インターネット(というか,主流はパソコン通信)は一部の層のものだった。


1995年という1年を,わたしは高校2年生から3年生にかけて過ごした。地震の少ない土地に生まれ育ったわたしに,あの朝の自分の体験はそれなりに大きなものだったし,一昨年の3月11日までは,いちばん強烈な地震の記憶だった。2000年の鳥取県西部地震がそれに次いでいた。


2011年の東北地方太平洋沖地震に始まる一連の震災は嫌でも阪神淡路大震災を思い出させた。いつのまにか時が経っていた。あのころはまだ,Twitterどころかスマートフォンどころか。携帯電話も普及していなかったし一般家庭にパソコンもなかった。阪神淡路大震災をきっかけに見直されたことや変わったこともたくさんあるのだと思う。今,神戸に行っても,一見して地震の爪痕はわからない。


1995年1月1日〜4月1日生まれの子どもの多くが,今年高校を卒業する。


1995年の1月17日は月曜日で,大学入試センター試験の翌日だった。日本海側を通って何時間もかけて二次試験(個別学力試験)を受験した話やボランティアの話はあとから聞いた。自己採点のために線路の上を歩いて登校したという長田高校OBの話は強烈に心に残っている。わたしが住み始めた1996年は京都市の外れにおいてもまだ震災の記憶は新しく,古い建物があれば,あれは今にも崩れそうに見えるけれど震災をくぐり抜けたと聞かされた。


阪神淡路大震災に想いを馳せると,なぜか受験のことがセットで思い出される。これから一年のうちで最も寒い時期を迎え,各カテゴリの入学試験が本格化する。すべての受験生が食べて寝て体調を整えて,これまでの努力の成果を存分に発揮できますように。


そして,新しい春は必ずやってくるから。それはきっと素敵なものにできるから。