文章の良し悪しみたいな話


去る2月16日のこと。この話題で盛り上がるTwitterTLを見ながら「20ツイートぐらい連投しそう」と書いたら「ブログでやれ」と言われました。もっともなのでブログで書きます。

要約すると


  • 文章表現の上手下手はある
  • 内容の適不適もないとは言わない
  • 読解力も個人差がある
  • 書いたものへの反響は引き受けねばならない
  • それでもたくさんの文章があったほうがいいと思う
  • だから無闇に過剰に叩くのは好きじゃないなー
  • 今時のWebメディアはわかりづらい

発端


1週間ほど前のこと。「ひろスポ!」なるサイトに掲載されているJTサンダーズの試合レポート記事が酷い,というので,わたしのTwitterTLが瞬間沸騰しました。


石川と川口のモデナのあれこれに関連した話題も同日沸騰しましたが,話がとっ散らかりすぎるのでおいておきます。


このあと記事を擁護するような内容も書きますが,わたしも,読んでアチャーと感じました。こういう体裁のサイトに載る最低ラインの品質を満たしていないと感じました。


わたしが引っかかったポイントは次のようなことです。


  • 用語の明らかな間違いがある(アカン)
  • 個人のネガティブな感想の割合が高すぎる(不快)
  • 出来事にかかる主観的な形容表現が多い(読みづらい)
  • それが,公的スポーツメディアっぽいサイトに載っている(品質は誰が担保してるの)


酷い文章でもたくさんの文章がある方が世の中は豊かだ,というのがこのエントリの主旨ですが,沸騰した理由にこの文章の質があると感じたことは否定しません。そして炎上騒ぎを望んでいるわけでもないので,今回の件は残念でした。


瞬間沸騰したTLでは,さまざまな人がさまざまな見方をし,さまざまな感想を述べていました。中には興味深い発展をした議論もありました。その辺りを書いていきます。


なお,文章の良し悪しに関するエントリですが,自分の書く文章の質は棚上げします。


それから,当該のレポート記事はその後内容が書き改められています。リリース当時非難の対象となった記述は現在は削除されているようです。魚拓も取っていないので,一度斜め読みしただけのおぼろげな印象と記憶に基づいて書いていることをご了承ください。したがって,挙げている問題点等も,Web上の文章全般に起こりうる例といった程度に薄まっており,必ずしも当該記事がそうであったとは限らないことを,あわせてご了承ください。

文章表現について


明確な二分はできませんが,文章に上手下手はあると思います。今に始まったことではありません。文章読本や文章講座の類はそれだけで一つのコンテンツとして成立するくらいにありふれた課題です。まして,誰もが気軽に発信できるようになった現代のインターネット上の文章が全て上手いものであると考えるほうが不自然です。


上手い文章かどうかは,一概には言えません。ただ,件の記事は


  • Web上で
  • テキストメインで
  • 試合の様子をレポートする


文章としてみたとき,上手い文章とは言えないと感じられました。


また,そこから派生して,注釈の入れ方が話題になりました。本文中に()を使って挿入する方法は多用すると読みづらいということです。


文中に注釈が出てくると,それまでの話の流れを一旦頭の脇に置きつつ注釈を読み,読み終えたら脇にいた本筋を頭の中心に戻してこなければなりません。


注釈というのは,想定している多くの読者には必要ないが一部の読者には必要と思われる,或いは,本筋とは関係ないが補足的に添えるといった類のものです。本文中に()を用いて挿入すると強制的に読まされるのでしんどい。まして,()が多かったり()内が長かったりすると,本筋が分断されることはなはだしくなります。


これが紙メディアであれば,割注なり脚注なり,本文より級数を落としたり場所を移したりして,適度に本文との見た目の差別化をはかれます。


Webの場合,注釈をポップアップで示すことで紙よりも見やすく便利に使える面もあります。Wikipediaにもこのはてなダイアリーもにもあります。しかし一方で,ブラウザによっては面倒というか一見して使い方がわかりづらい場合もあります。


そもそもWeb上でテキストコンテンツを提供する場合,ユーザ側のインタフェースがわかりません。ガラケーかもしれない。スマホにしても液晶のサイズや画角が製品によってまちまち。タブレットかもしれないしパソコンかもしれない。使っているブラウザ,ユーザ自身によるインタフェース設定。などなど。


それらを,提供側がある程度想定しコントロールすることはできますが,きっちり固めたものを提示することはできません。これは紙と大きく違うところで,乱暴な言い方をすれば,見せ方を変えて読みやすくするのは,絶対的正解にはなれないのです。


そうすると,文章そのものを,注釈によらない構成にすることが望ましい。難しいですがそこが筆者の工夫のしどころと感じました。

内容について


よほどでない限り,書いてはいけないことはないと思っています。スコアと出場選手以外のすべての記述はどうせ筆者の主観から逃げられません。スコアと出場選手だけなんてつまらない。主観混じりであっても,実際に観た人による臨場感のあるレポートを読みたいものです。


でも,主観が入る以上,筆者の感性と合わず不快になることも当然あります。何を書いたとしても,全員が快く思うこともなければ全員が不快に思うこともないでしょう。その中でも不快と感じる人が多い内容を「書いてはダメだ」とわたしは言いたくありません。でも,読んだ側が「こんな記事はダメだ」と感想を言うのはどうしようもありません。


今回のレポートはダメという意見が出て当然と思われる内容でした。なぜなら文の端々に,前提となっている色眼鏡や感情がにじみ出ていて,そしてそれが概ねネガティブだからです。相手チームへの敬意もなければ自チームへの敬意さえも疑われるような記述がみられました。


ファンというのは面倒なものです。応援しているチームによりよくあってほしいがゆえに,足りないところばかりが大きく見える。傷つくのを回避したいのか,とかく最悪の結果を想定しがちでもあります。


そういう気持ちがダイレクトに放たれると人を不快にします。ひろしまのスポーツサイトだからJT贔屓の記事になるのはいいのです。ただ,結果的に,応援しているチーム自体を悪く書いている。だから,不愉快なのです。


これはわたしには耳が痛い話です。わたし自身そういう,贔屓disり倒しをしょっちゅうやっているからです。昔はもっと酷かった。


でも誰も幸せにならない。リリースする前に少しだけその観点で読み返せば,非難される前に今残っている記事くらいにできたわけです。


反感を買いそうな内容を主張したいこともあります。その場合は書き方や選ぶ言葉に気をつけて前向きに見えるようにしたいものです。自戒。

読解力について


今回のケースとは関係ないのですが,表現力の上手下手の話をしたついでに,読解力についても少し。


表現力に上手い下手があれば,当然読解力にも上手い下手があります。自分には語れるだけの材料がないので多くは語りませんが,書き手の意図とは異なる伝わり方をした場合,その原因を書き手の表現能力や文章作成スキルのみに帰すのは不公平です。


ちょうどこの話題がホットだった頃,並行して,人見知りとか対人コミュニケーションスキルの話も賑わっていました。そこでわたしは含意を汲んだり空気を読んだり(=ノンバーバルな意思表示を理解したり)することが苦手だと呟きました。確かに苦手です。ですが,汲んだつもりで勘違いが起きるのも含意です。


文章に置き換えると「行間を読む」ことにあたります。行間を適切に読むには相応のスキルが必要です。現代文の読解問題では「内容はそれらしいけれども素材文中には書かれていない」選択肢が提示されることがあります。あれは選んじゃダメなやつです。どんなにもっともらしい内容でも書いてないことを勝手に想像してはいかんのです。


現実には試験問題のようにはいきません。どこにも書いていない含意もあるでしょう。とはいえ,ネット上の炎上案件にはしばしば「どこにもそんなことは書いていない,誰もそんなことは言っていない」ことを勝手に深読みしてあたかもそれが筆者の真意であると思い込んで話をややこしくする人の出現が観察されます。


わたしの周りの人がそうだと言っているのではありません。今回のケースには当てはまらないよとも言っています。ただ,円滑な文章コミュニケーションには発信側の表現力とともに受信側の読解力も必要であるということは言っておきたい。

叩き過ぎじゃねーの


文章の上手下手もあれば内容の良し悪しもある。でも,それでいいのです。上手で正確で公平でないと書いてはいけないなんて言っていると書き手がいなくなります。業界はどんどん寂れていきます。たくさんの文章が揃っていて,読者が多面的に知ることができるほうが豊かで望ましい。


もちろん,反響は受け止めねばなりません。その心づもりは,本当は必要です。


でも,もし自分があれを書いた側だと想像したら,今回のようにTwitterで大勢の人から非難されるのは,そうとう辛いです。


一人ひとりの非難や批判,意見はまっとうで小さなことでも,それが拡散して五人十人二十人に言われると,素直に受け入れられなくなります。まして,拡散するにつれ,中にはろくに読みもせずに心ない叩き方をする人も出てきます。


人は,叩いていいと判断すると全力で筋の通らない叩き方をしたり,憶測で叩いたり,人格批判したりといったふうになりがちで,そのくせ一晩経てばけろっと忘れます。日頃の鬱憤を晴らした側はそれでよくても,叩かれる側も人間です。もう二度とどこかで文章を書こうという気になれないかもしれません。


本人でなくとも,この様子を見た他の人の中に,ああいう場に署名原稿を提供することを躊躇する人も出てくるでしょう。それは寂しいことです。


業界がシュリンクしないためにも,誤りの指摘や筋の通った批判こそあれ無闇な叩きがなくなることを願います。

校閲・校正


フルボッコにされるのは勘弁ですが,文章中の明らかな誤りを指摘されるのは,ありがたいことです。指摘された時はバツが悪いけれど,ずっと残っていると恥を晒し続けることになるからです。


何をどう書こうが自由でも,越川のパイプを「新幹線」と呼ぶのは誰か止めてやれよと思います。寡聞にして初耳だったので用語として陰で定着しているのかどうかは知りませんが,「新幹線」の由来はゴシップ記事です。


ゴシップ由来の隠語でも,広く周知されるにつれて単なる愛称として定着するものもあるでしょう。でも,現段階では,JTに好意的であることが望ましい記事中に注釈による解説付きで使うに相応しい用語とはわたしには思えません。知っていてわざとやっているならえげつないし,知らずに書いているなら滑稽です。


適切に用語を使うのは難しいことです。バレー用語の殆どは国語辞典に載っていない。バレーペディアは参考になりましょうが,馴染みのない用語や使い方もあるし,定義がはっきりしていないものもあります。完璧にするのは不可能です。


敢えてローカル用語を使いたい場合もあります。


だけど,もう少しくらいは,適切さを意識してほしい。


気をつけていても間違えることはあります。書き手の癖や思い込みもありますし,自分が書いたものの誤りは自分で見直しても見つかりにくいものです。それを第三者の目で確認するのが校閲や校正で,一般に商業出版の世界ではそうやって品質維持の努力をしているわけです。

公式っぽいサイトと個人っぽいサイトの境界線


この記事が問題視された当初,ギャラを貰っているのにこの内容は酷いという批判も多く見られました。どうやら誰でも投稿でき運営が目を通してはいるもののほとんどスルーで掲載されているらしいことがわかってから,その種の批判は沈静化しました。


しかし,原稿料を貰っていたらダメで無料で書いたものなら仕方ないというのもおかしな話です。


まず,読者はいずれにしても無料で読んでいます。原稿料を云々するのであれば,無料で読める記事ならこの程度でも仕方ないと受け止めておけば,心穏やかでいられるかもしれません。


もちろんWeb閲覧と費用負担のしくみがそんなに単純なものではないことはわかっています。それに有料サイトの有料記事なら優良とも限りません。有料の雑誌や書籍が全部正しくて有意義とは限らないのと同じです。


ですが,読者の気の持ちようとして,自分が直接負担していない原稿料を筆者が受け取っていると決めつけて相応の責任を求めるのは,今のインターネット上のコンテンツとの付き合いをしんどくすると思います。


一方で,経験に基づく感覚として,ああいった体裁のサイトであれば,品質はある程度保証されていると感じます。有料無料にかかわらずです。


どうやらそれは誤解だったようですが,誤解されるようなサイトデザインにも問題があります。各記事の最初と最後に「文責○○」と明示するだけで筆者に内容の責任を丸投げでき読者への責任も果たせていると考えているのなら運営の怠慢です。というか,運営はコンテンツの品質向上を図るべきです。


我々はポータルっぽいサイトに何を求めているのか。運営に何を期待しているのか。なぜ個人ブログ然とした体裁の場ならよくて,公式っぽい体裁ならダメなのか。


人は何を根拠に情報の確実性を判断しているのか。


これはわたしにとって興味深い事案でした。変化の激しい場です。世代間の感覚差もありそうです。情報の送り手と受け手はクロスオーバーし,費用負担のしくみは複雑化し,集団と個,公と私の別も曖昧になる,いや,そもそも意味がなくなる。しかし,狭い自分のTL上ではあるもののユーザ側の受け止め方にそういう傾向が見られる以上,そこにコンテンツを提供する筆者も,それを掲載し読者に提供する運営も,気を遣ってほしい。


このサイトには編集責任者という人がいます。この人は何をしているのでしょうか。


編集とはなんぞやを語りだすとまた20ツイートぐらい連投しかねませんので,この辺りでこの項は終わりにします。


参考:編集者って何の仕事をする人なんだ。