映画「シン・ゴジラ」から広がっていく,あるかもしれない世界:その2
自分でも何を書きたいのかよくわからないのですが,文章を書くことの軽いリハビリです。
当初書こうと考えていたのとはずいぶんアプローチのしかたがかわっています。
事件は昨日,女性限定鑑賞会議(発声可能)のチケット取りに目を血走らせている裏で起きていたのです。Twitterの映画公式アカウントが,当該イベントの告知ツイート*1に「内閣腐」ハッシュタグを入れていたことが,なんかしらんけど,紛糾していた。
公式が「内閣腐」を使ったことに対していろいろな見方・意見があるようです。わたしは使われていたことをなんとも思っていない,というか,周知目的以上の他意はなかろうととらえているのだけれど,なかなか難しい。
こういう作品を好む人々だから余計にかもしれないけれども,重く受け止めすぎな気がする。これだけおおっぴらなものを公式が知らないはずはない。それはファン側もわかっているはず。その上で,見て見ぬふりをして触れないでいてほしいというのは,ファン側の理屈であり,公式に求めるのは違うような。触れないでほしい理由は所謂「目をつぶっていてほしい(お目こぼししてほしい)」なのか,気恥ずかしかったり興醒めだったりするからか,どれもたいへんよくわかるんだけども,わかるからこそ,使用ルールも定義もないTwitterのハッシュタグの使用一例に過剰な意味を見出すのは得にはならんような。
しかし,こういうことが起きるとさーっと引いていくのは腐女子(に限らず二次創作系ネタ系で楽しむ人全般かも)の性質かしらん。少なくとも,紛糾するとタグ検索の結果にその件に関する学級会議が増えるので,割合として,きゃっきゃうふふネタが減る。公式に捕捉されたことそのものよりもその後のそういう雰囲気が原因で機運が盛り下がるようにも見えます。個人の感想ですがそうだとしたら公式め,いらんことを(わざとかも? ←こういうのが針小棒大事例)。
告知ツイートには「巨災対の日常」と「内閣腐」両方使われていたのにことさら「内閣腐」のみを取り上げて云々するのも違和感がある。
やっていることは同じなのに。
プロトコルの問題
男性キャラ同士を恋愛関係に置くのは,作中に描かれていないエピソードをつくったり作中のキャラクタを作中では起こりえないシチュエーションに置いたりする二次創作的活動のうちのひとつでしかない。というのが,わたしの持論です。たとえば当該映画にはエンドロールに名前が出てくる俳優だけでも三百人を超える人物が登場している。その中に同性愛者や同性のカップルがいてもなんら不思議はない(この規模になると,いないほうが不自然か)。本作品は登場人物の恋愛模様に一切触れられていないが,描かれていないものが「ない」わけではない。
ただ,過日のアウティングの事件を知って,「同じ」と言い切れるのは自分が異性愛者でマジョリティに属しているがゆえの傲慢さだと思った。そこは意識しておかないかん。
実際に見られる現象は作品世界の考察の結果による云々というよりももっとずっとライトでカジュアルなものだけれど,だからこそよけいに思慮を欠きがちでもあり。そのへんはいろいろセンシティブなものをはらんでる。と,これもかねがね思うところ。
とはいえ,現実世界で傷つく人がいるのも,腐方面に限ったことではない。この映画にはまだ記憶に新しい災害を想起させる描写がたくさん出てくる。はっきりそれと明示しているわけではないけれど,そこで辛い思いをした人の中にはこの作品そのものが辛い人もいるだろう。映画自体は「それ」に真摯に向き合って描き出したものとわたしは受け止めたが,それも受け止める人によるだろう。まして,作品世界をベースにネタ的に盛り上がっている人々の活動は,場合によっては配慮を欠く例もあるだろう。
ただ,なんだろう。身勝手かもしれないけれど,「それはそれ,これはこれ」が空想(妄想)系二次創作の大前提,というプロトコルで成り立っているんだと。
というわけで,また本題にたどり着けませんでした(え)。
*1:削除済み