以前,「『芸能』はパロディではない」と熱く語ったものだが,

そのとき使用した「二次的著作物」という表現,著作権(法)上できちんと(別の意味の)語として存在しているようなので,紛らわしかったですね。今読んでいる「著作権の考え方」(どっかの新書)では,この種のパロディについては全く触れられていない。この本に拠ると,二次的著作物というのは,原作があるものを加工した映画・漫画などを指すらしい。二次的著作物をつくることに対して原作者の権利が働くのは勿論のこと,二次的著作物そのものには,原作者とその二次著作者両方の権利が働くことになる。


著作権」とその周辺の権利は「著作物」に対して発生するなので,「アイデア」には発生しない。これ,以前何かの判例もあったような。


現実には,問題とすべきは著作権のみではないので,著作権を侵害(抵触)しないからといって何の問題もないこととイコールではない。また,著作権というのはルールでしかないので,モラルとは別の話である。


というわけで,著作権も肖像権も侵害しておらず堂々としてりゃいいはずなのに何故か後ろめたい感じがするその種の所謂パロディ。やふーサーチで検索しても,ひっかかるのはうちみたいなんばかりで,恐らく求めているものは(なかなか)見つからないんじゃないかと思います。某キーワードなど,MSNサーチ検索結果でうちは21〜30件目に該当していて,わざわざ見に来てくれて申し訳ないのですが,当然ブツは置いていません。


っていうか,某キーワード。あたしに場所を教えてください。なんなら無断でデータ送ってください(特定少数への個人的な頒布は許されるのだろうか)。いやまじで。


なんつぅかさぁ。プロテクトしたい気持ちはわかるんだけど,この「公」の具現であるところのインターネットのそれも借り物サーバを使っているはずなのに,一体どういう手段を使っているのか,その種のデータを置くサイトってのは,もの凄く地下深いところに潜り込んでしまっていて,余所からはなかなかめったに入り込めないようになっているんだよね。やふーさーちはともかく,ぐぐってもおいそれとは引っかかってくれない。暇と根気があれば探し出すことは出来るだろうし,一度中に入ってしまえば“同人”らしいネットワークがそこには作られているので,横移動は(比較的)簡単なんだけど,最初の門をくぐるのが大変。そして,わたしにはそんな根性も暇も,ないんだよねぇ。世の中がどうなっているのか,気にはなるんだけどさ。


しかし彼らは何を怖れているのだろうか。インターネット上を飛び回る個人が作ったWebページの中には,もっと明らかに著作権を侵害しているものだってあるだろうに。著作物でなければ著作権は侵害していない,映像をのせていなければ肖像権も侵害していない。名誉毀損で訴えられるほどのものではない(具体的にどれほど毀損しているかという証拠は挙げられまい)。法的には何の問題もなかろう。心配なら冒頭(或いは末尾)にでも「この物語はフィクションであり,〜」の一文でも加えておけばよかろう。どうしてそこまで周到に地下に潜るよ。普通に読ませてよ。特定少数の“内輪”(でも遠隔地に住んでいる)の人達とだけ共有したいんかなぁ。ネット同人だね。それはそれで,インターネットのそういう使い方ってのもありだとは思う。インターネットを使ったら必ず誰もがどこからでもアクセス出来る状態にしておかねばならないという決まりがあるのかどうか,わたしは知らないし。


確かに,例えば実在の人物をおもちゃにしようするのであれば,本人及び近隣の人々がそれを目にして不快に感ずる危険性と常に隣り合わせだ。これはルールや損害ではなくて良心の問題。不快感を与えるのをよしとしているわけではないものね。ロボット系の検索だと,トップページではなくいきなりコンテンツそのものを直撃してしまうので,何か勘違いした人がそこに辿り着いてしまう可能性も,ないではない(それは,その種のコンテンツを期待して検索しても見当違いの日記しか出てこないのと全く同じ現象の裏返し)。あらゆる手を尽くしてそれを避けようとするのは,狭量なのではなく親切なのだ。それはわかるのだが。


うぅむ。需要あるところに供給ありのはずなのだが。かなまるとこの話をしていたら,彼は「なければ自分で書けは?」と言った。「こんな絵が好き」だからって「こんな絵」を描けるかってぇと,そうじゃないでしょぉ? 探せばあるのだろう。あるのだろうが(探すのが面倒なんならどうしようもないわな)。


書いたら書いたで,しまい込んで置くのも勿体ないような気もするし(苦笑)。かといってさらし者にする勇気もないし。といって,どっちが恥ずかしいか比べて考えてみると,公正に見てこんな文章を日々さらし者にしている方が余程恥ずかしい。