きのう取り上げた「必読書150」は,

時間差でしまうま氏も書かれてましたね。うぅむ。ここまでお祭りになってくると,そのリストとやら,さすがに気になってきた。


でも,もとが150冊で,そこに(今までわたしが読んだだけでも)4人の人間がそれぞれの既読書を挙げているのだから,重複はあるにしてもそこそこの数が既出しているはず。それなのに,今のところ4氏の既読書の内わたしが読んだことがあるのは「不思議の国のアリス」と「吾輩は猫である」と「銀河鉄道の夜」だけなので,大本のリストを見たところでそれ以上に数が増えることはないんじゃないかと思われ,わざわざリストを見に行って今以上に落ち込むこともないかなぁと思っているわけ。


名前こそ有名なれど読んだことはない(ちらと見た限り自分に読めるとも思えない)難しそうな本達を,この人たち(一応全員顔見知りだ)は読んだことがあるのか,と,実はそこに大変驚いている。


そこで再び,今度は娯楽としての小説ではない,それ以外の読書行為について,“読書は崇高である”といった幻想を元にぶずぶと泥沼に落ち込み始めるわけですが,


しかしどこかで誰かが書いていたけれど,今に生きるわたしという一人の人間にとっての必読書がこれか,と問われるとあからさまに違うな,と思うものも(彼らの既読書リストを見た範囲だけど)含まれているし,一様に落ち込むこともないだろう。


しかしまた一方で,生きていく上での要不要論とは別に,「教養」はないよりもあったほうが絶対にいい,とも思っている。明確な根拠はないのだけれど,自分の顕在的な興味関心のみを追究することは,悪いことではないけれど,人間として薄っぺらいんじゃないかと,思ったり思わなかったり……でもこれって,“スペシャリストよりはジェネラリストが偉いとおもう”でしかないな。根拠が提示されていないので説得力皆無。