本題に入らないままおしまい。


片想いの話でも書こうと思っていたのですが。


「会いたいから会いに来ましたー」って言われても,来られた方はいい迷惑じゃないだろうか。どきどき。


つまりは一方通行なのだ。その一方通行すら,思いこみかもしれない。よくあることではないですか。憧れを募らせすぎて想像(妄想)の世界に入り込んでしまい,対象をきちんと見られなくなっていることが。


実のところは話も気も馬も合わない可能性だって,大いにあるわけですよ。


目の前を彼女の顔がちらついてしまったので,スケジュールの折り合いがつけば(←この辺は一応理性があるふりをしているつもり)行く方向で検討する意志は継続中ですけどね。


ここでは「友達」呼ばわりしていますが,実のところ3回程度しか会ったことないと思うんで(直に話をした回数も同じだ),こっちの勝手な一目惚れは一目惚れとして,何考えてはるのかわからんし。それは彼女自身が掴みにくい(掴まれにくい?)人物だからなのか,それとも,例えば感性や環境が違いすぎてわたしの方の問題として把握できないのか,いずれにしても,いざとなると異常に緊張します。そういうことを気にしてしまうことが既にアレだと思うんですけど。


こうやって書き出してみると,イタい人間っぽいな,わたくし。まぁええねんけど。


好きであるということは,それだけで,それにかかる負担(時間なり費用なり労力なり)をしごくあっさりと踏み越えてしまえる力を持つものなのかしらねぇ。そして,そもそもそれ以前に,好きになることに理屈は通用しないんかしらね。原因・理由・きっかけ,言い方は何でもいいんだけど,そういう何らかのものは必ずあるのだろうけれど(本人が自覚しているにしてもいないにしても),そこに必然性なり正当性なり論理性なり,そういったものは存在しなくても成立してしまうのか,と。


優劣とか大小とか強弱とかではなくて,一括して「友達」とか「知り合い」とか呼んでいる間柄の人でも,そういううじゃうじゃしたことを思う相手もいれば全く思わない相手もいる。そういううじゃうじゃを思わない相手の方が,「気の置けない」「腹を割って話せる」「気心の知れた」付き合いが成立しやすいだろうし,一緒に遊んで気楽で楽しいといった喜びも容易に得られるものであろうから,わざわざ同性相手にまで(おそらくわたしは異性愛者なので),そういううじゃうじゃを持ち込むのは非効率的であるようにも思うのだけれども,こればかりはどうしようもない。いずれにしても共通しているのは損得や利害ではないということで,それは,後先も向こうの都合も考えずに押しかけてしまうタイプの相手であろうが,時には“めんどくさいから,ごめーん”で断ってしまうタイプの相手であろうが(いつもお世話になっております),同じだ。


何にせよ「好き」方面の心の動きについては晩生であり経験もないので,どうやら中学生のようなことを書いてしまったようですが,鼻で嗤ってやってください。


ウィンブルドン始まりましたね。睡眠不足の季節だ。


夏はいろいろありましたね。そろそろ1年か。たまに突如として無性に袈裟懸けに斬りつけたり鈍器でめった打ちにしたくなる衝動に駆られるのも,1年程度なら仕方ないかな。実行に移すことはけしてないので,それぐらいは許してやろう(自分に対して)。(2:23)