世の中は狭いようで広い


みやの携帯電話にわたしの携帯電話から「可能ならはてなダイアリー読んで」という旨のメールを送ったところ,彼女もまた「はてな」ユーザであったことが判明。


2人が2人とも「はてな」を利用していたことは「広いようで狭い」ととらえるべき出来事かもしれないが,利用し始めてからそれなりの月日が経過しているのに今まで「おとなり日記」等でかすりもしていない(お互いその存在に気づいていなかった)のは,世の中というよりもはてなが,狭いように見えて実際はえらく広いんだなぁと。狭いっちゅぅか,キーワードなどでぽこぽこ飛んでいけるからユーザ同士の距離が近いイメージがあったのだが。


こないだたまたまちかにも会ったし,なんだかいろんなものごとがわたしを高校時代へと向かわせている(野球部は負けたが)。


概略を説明しておくと「みや」と「ちか」とわたしの3人が,某公立高校吹奏楽部の同学年フルートパートの3人(1年生の時にはもう1人いたのだが,親の転勤に伴って高1修了時に転校していった)。3人とも中学校が違っていて,高校でも同じクラスになったことはなくて(理系と国際コースと文系とに見事に別れていた),言ってしまえば部活だけの繋がりではあったのだが,高校に於ける部活動の占める割合は(わたしのような不良部員に於いてさえ)それなりに大きいので,けっこうウマがあったということもあり,仲は良かった。


もともと選んだ楽器以外は別々の方向を志向していたので,今の生活も三者三様だ。しかし,みやとは実はこないだまで「その気になれば内線電話で連絡が取れる関係」だったし,ちかの現在の交際相手についてはどうも他人事とは思えない何かを感じさせられるものだし,高校時代は遠くなったが,意外なところに接点があるものだ。


そんなことはともかく,これらがひっかかって,普段は手の届かないところにしまい込まれている記憶媒体(脳内記憶領域)が刺激を受けたらしく,高校時代のことや遡って中学時代のことがするすると思い出される。当時同じ学校に通っていた人たちの顔とか,校内の風景とか,ささやかな出来事とか。


思い出は美しいのかねぇ。中学・高校時代と今と比べて,今の方が楽で楽しい毎日を送っているであろうことは疑いもない。もう一度戻りたいとも思わない。自分が中学生や高校生の頃,「憧れ」という言葉は必ず自分よりも上の年齢・世代に対して抱くものだった。しかし,今は,自分が確かに通ってきた過去なのに,過去であり下の世代に対して,憧れめいた感情を抱くように,なっているのは,それだけ高校時代が自分の「現実」から遠い世界へ行っているということなのか。


身も蓋もない言い方をすれば,年を取ったってことなんだろうけど。うん。高校生の自分よりも「わたしにだって高校生の頃があったのよ」と言っている自分の方がよほど現実味がある。既に旧き良き青春の一コマ状態だ。別にそんなよかったもんでも,ないような。うぅむ。悪かったわけでもないんだけど,異性と縁がなかった以外は(←自らの選択の結果とはいえ,根に持っているらしい)。


本当に異性と縁がなかった(同性愛者だったわけではなくて)。これ以上書くと個人を特定されかねないので書きませんが(誰に何の特定をされるのだ。よくわからんぞ),とにかく縁がなかった。どれぐらい縁がなかったかって,19歳と何ヶ月ぐらいまで誰かに対して好きだなどと言ったことがなかったし20歳と何ヶ月ぐらいまで誰かから好きだと言われたこともなかったぐらいに縁がなかった(後者は19歳と何ヶ月の間違いかもしれない。覚えていません)。中学時代も高校時代も,日々の生活はそれなりにタイトで(漫画読んだりテレビでプロ野球見たりするのに忙しかった/笑),男子生徒と交流する時間なんてなかったというかそんな時間を取ることを思いつきもしなかった。何が言いたいかというと結局のところ多少気になる男子生徒がいたとしてその男子生徒に好意を持つに至ることすらなかったと,そういう話だ。多少好感は持っていたのだろうが,海のものとも山のものともつかぬ相手を好きにはならん。そういうことで。彼は今どこでどうしているだろうなどと,最後に偶然電車の中で会った大学何回生だかの夏休みだか冬休みだかのときの(そのときわたしはかなまる連れだった),そんなしょうもないことまでいっしょくたに思い出してしまった。(0:28)