どのように見てどのように書くか


例によってオチはない。


先のエントリと関係ありそうななさそうな話。


Twitter上にしろ雑誌にしろテレビにしろ,新たな知見を得ることは10年前と比べて格段に手軽になった。雑誌は量の面では芳しからざる状況ではあるが,テレビ放送はわたしがVリーグを見始めた頃はNHKBS一辺倒だったが,今はNHKBSとGAORAがそれぞれ放送してくれるので,合計の放送試合数は増えたように思う。地上派でなくなっていくことを悲しむ向きもあるだろうがわたしはそうは思わない。JOCもインカレも黒鷲旗春高もWLも,チャンネルが増えたことで,ディレイダイジェストではないライブフル放送を楽しめる機会はきっとずっと増えている,はず。


Twitterでは,選手や指導者やファンのひとびとの意見をいくらでも読むことができる。Twitterの隆盛とともにブログは下火になっていると言われているし実際そういう機運も感じられはするけれど,それまで繋がっていなかった人が緩やかに繋がって行くことで,感想や報告に接近しやすくなっていると思う。


で,ここの話。


はてなが今年10周年なのだそうだ。過去の日記の日付をみたらいちばん古いのが2003年の10月だったので7周年と9か月。ブログツールが世に出回り始め自分でむーばぶるたいぷを駆使するかt.diaryを入れるかはたまたはてなのような外部サービスを利用するかといった混沌としていた時代にアカウントを取って,不信いっぱい半信半疑で投稿するようになってから,そんなに時が経っているとは思わなかった。日記とアンテナといわしぐらいだったはてなも,いつのまにやら様々なサービスを展開するようになっている。わたしもいつのまにか記事を直接Webの編集画面で書くようにシフトし,ローカルにログを保存しなくなった(はてな鯖こけたらエントリ全部こける)。それでも改段落ごとに段落タグを書いてしまうところだけは,HTML1.0時代に染みついた癖が抜けていない。


折に触れて書いている通り,一行紹介「書き手本位」を貫いて今に至る。対象の読者は未来の自分。自分用の覚書ならメモ帳に書いておけと言われても,どこでも読めて検索できるオンラインの方が断然便利。まして紙に手書きのままでは,あとから探そうにも探せないし悪筆過ぎて読めない。


そういった経緯があるから,ここはけしてバレーボール観戦レポートブログではないのだけれど,時折若干そういう色気(下心)があるときもあることは否定しない。そしてその若干の下心が,自分を迷わせる。下心の有無に拘わらず,読もうと思えば誰でも読めるというオンラインブログの特性は,ふだんは意識していないけれど何かをきっかけに意識しはじめると,急にじわじわと混沌とした気持ちになっていく。

どのように見るか


新たな知見を得る機会がこれほど増えているのに,自分の観戦にはとんと反映されない。自分が座学的に耳学問的に学習するそれらと,目の前の試合とがうまくリンクしない。


見に行くのはたいてい1人でだ。有り難いことに最近は現地で1人じゃないことも増えたけれど,見ている間は視界の補完(さっきの誰,とか,今何点目,とか)をするぐらいで,基本的に個人競技だし,わたし自身はそれを好んでいる。好きなものを好きなように見て好きなことをしている。すると,目の前の状況を目で追うのにいっぱいいっぱいで,せっかく得られた新しい見方を試みることができないまま,というのが,実態だろう。そこで少しがんばってみれば,何か違うのだろうか。技術,戦術,諸々。


一方で,ま,がんばらんでもいいんじゃね,と思っている自分もいる。レジャーでファン。その楽しみを広げるためになにがしかを試みることは有意義だけれど,広がらないことに落ち込んだり劣等感を抱いたりしていては,楽しめるものも楽しめなくなる。


たとえば,プロ野球を見ていて,いまだにストライクかボールかは審判の判定頼みだし,球種なんて覚えることも考えることも放棄している。解説付きで正面から見られるテレビ観戦でも「1塁空いてるからここは敬遠でいんじゃない?」と独り言は言うけど「次は外のチェンジアップだろう」とは独り言しない。好みの問題なのかレベルの問題なのか,わからんけど,プロ野球ってそんな程度の見方でそれなりに楽しんでいることについて無闇に劣等感を抱いたりはしない。


感想や評価は観た人の数だけある,楽しみ方は星の数ほどある,でありたい。


ただし,贔屓チームのあるプロ野球観戦だからできる楽しみ方ではある。自分が応援しているチームでそのとき投げてる投手を全く知らなくても,ヤクルトが勝てば(上位に行ければ)万事OK,という楽しみ方。球場はビアガーデン。パリーグはあんまり見ないから,名前を知ってる選手が出てくればにこにこ。


そういうわけにもいかないバレーボールを,ことに初めて見るチーム(選手)をどう見ればいいのかというのは,いまでもわからなくて,昨日も困っていたところではあった。昨日は東レと大同がいたので,ついでに,というと言い方は悪いがついでにほかの試合を観るかんじ。そして困るかんじ。知らないチームだけで試合をしていたら,近くでも見に行かないと思う。そこをどう体育館に連れ込むかは,うまい人の腕の見せ所だろう。


試合を観ていて,全然知らなくても,目立つ人がいることは往々にしてある。わたしの場合はたいていは打数得点数の多いサイドアタッカーだ。人やときによってはちがうだろう。なんにしても,そういうのに出会えると,その試合は楽しかったね,となる。そういう意味ではわたしにとってはエースが1人で牽引しているチームが分かりやすいのかもしれない。そしてそこにわたしの限界があるのかもしれん。そこで,得られた知見を適用させることができれば,もっと楽しく見られるのだろう。プレーにしても戦術にしても。


そう思いながら,しかし,目の前で起きているそれをどう見たらどうなるのかは,やっぱりよくわからんのだった。


限界を覚える大前提として,年を経る事に狭く狭くなっていく自分の指向が,今,「現地で生で試合を見る,that's all.」になっているところは大きい。テレビ中継,テレビの関連情報番組,スポーツニュース,雑誌,Web掲載記事,スポーツ新聞,それらから得られる情報や「見方」は多いだろうに。全く見ないわけではないけれども,けして積極的でも熱心でもない。とくにテレビは時間を合わせてテレビを見たり録画予約して後で見たりするのが億劫だ。試合の放送はかろうじて予約はするが,リアルタイムで見ないとなかなか見ない。時間を合わせて外出はするのに。


これは善し悪しではなく,コンテンツの質を云々しているわけでもなく,単に自分が横着なだけ。流れてくる耳学問はするけれど,インタビューとか解説とかの情報をそこまで欲していない。


平たくと言うと,それほど好きじゃないし興味がないということになるだろう。思い入れなり肩入れなり身が入るなりといった表現がなされるほどには好きじゃないのだと思う。好きな人のことは些細なことだって何でも知りたいと思う気持ちが,昔はあったようにも思うけれど,今はない。それが自分の広がりを押しとどめている。


ならばなぜ会場に足を運ぶかと。でも好きなんだよね。なんだろうね。「体は何で出来ていますか→水分です」的な回答を避ける(つまり「惰性」以外の理由を敢えて挙げる)なら,要するに,格好いい男性の格好いい姿を拝みに行っている,ただそれだけで,これも何度も書いている。


そこで,どのように書くか,とのギャップが生じてくる。

どのように書くか


じぶんがバレーボール競技にたずさわるものだと仮定するならば,そのスタンスは「ミーハーなファン」になろう。いろいろ思うところもなくはないけれども,今はこの原点に還っていて,そこを守りたいと思っている。


ミーハーファンが未来の自分のために記録しておくのならば,それなりの弾け方があるだろう。もっと素直に弾ければいいのにともう1人の自分が言う。


いや,今でもじゅうぶん弾けている。弾けているのに「いやいや,弾けませんよ」風に表面を取り繕おうとするから,どっちつかずになる。いちミーハーファンであると自覚している癖に分かった風なことを書きたがるから,書いてあることがわからなくなる。


何を目指しているのよと自分でも思う。弾けないなら弾けないとして。素直にならないのだとして,じゃあ,何を残しておきたいのか。


もう一つ,色気(或いは下心)の話。たとえば平日に休みを取って大きめな大会(黒鷲旗天皇杯ファイナルラウンド)に行ったときは,色気がMAXになっている。さほど大きくなくても,公式の情報が得られにくいとわかっている大会や自分が知っている範囲の人達の観戦が少なそうな試合ではちょっと張り切っている。たとえば,先日のアジア太平洋カップがそうだし,昨日の中総も若干そういう面がある。


世界が広がっていると知ってからは,ここでもごもごと書き残さなくても,どこかで誰かがより的確で適切な報告を上げていることがわかってきた。書くよりも探して読んだほうが早いし,ここに読みにくるよりも探して読んでいただいた方が話が早いし確実だ。


というようなことを何か月かに一度ぐだぐだと繰り返して,その度に,でも話題にすることが裾野を広げることだから,と自分に都合の良い理屈を振りかざして,自分を奮い立たせる。自分を奮い立たせている理由は,未来の自分が過去の記事をひもときたくなったときに残しておくため。


たとえば昨日,去年の中総の出場メンバーを見てみようと思ったら,張り切ってメモ帳を持参していたはずなのに,疲れて帰宅したからか何一つ書いてなかった。「何だよこれ,俺使えねぇ」ってなる。2mほど離れたところにある書棚を漁れば出てくるかもしれないが,試合中のメモは背番号しか書いていないので,パンフレットの地層を掘り返して去年のパンフレットを探し出して照合せねばならず,そんなの無理。ためてしまうとろくなことがない。片付けと掃除が出来ないわたしが言うことではないが,極意は都度こまめにすることに尽きる,だろう。


そういうこと。


自分の事情はさておいても,より多くの人が話題にすること,見たものに対する考えや印象,感想を書くことは,意義深いものだと思う。「見に行った,○○が勝った,楽しかった」の一言であっても,書かないより書いてるほうが断然いい。mixi日記っぽいそういう気安さがブログにはなさそうに見えて1エントリ上げることに構えてしまいがちだけれど,本来はそれでもじゅうぶんなんだよ。わたし,書かなかったら見に行ったことさえ忘れてるから(それはそれで特異体質)。


Twitteでもいいしmixiボイスでもいいしgoogle+のナントカでもいいしfacebookのナントカでもいい。


あっているとかあってないとかただしいとかまちがってるとか,こと観戦観劇の類で一意に決められるものではないし,それこそ個人のポストなりエントリなりの個人の感想をタダ読みしている以上,裏付けも必要ではないし,間違っているかもしれないっていう可能性は常に頭に置いている(べきだ)し。ことわりなしでも。


逆に,どっか1箇所に1こしか上がってないと,それが全てになっちゃう。複数箇所で記述された客観的事実に矛盾があれば,そこでどちらかが間違っていることがわかるし,書いた本人も訂正できるかもしれない。主観にかかわることだったら,それはもう有意義なことだ。


少なくとも,わたしはひとが書いた記事を読む際は,何でもうれしい。主観でも客観でも高温でも低温でもたくさんでもちょこっとでも。さきに書いたように周辺情報を積極的にとりに行くほうではないけれど,試合に関しては自分が気にしていて見られなかった試合はかなり気になるもの。


なので,もし,何かの情報を求めてここにたどり着いて読んでくださっている方がいらっしゃったら,それはそれで,色気の出し甲斐もある。他人に読まれることを避けているわけでも否定しているわけでもない,だから色気。でも,よくわからない。迷い込んで読もうとした人が知りたいことって何だろう。


自分が読む側だったらと考えて,何でもいい,と思ってしまうからこそ,何を書いていいかわからん。体育館周辺の飲食情報なのか,館内の観戦ガイドなのか,出場選手情報なのか,得点経過なのか,プレーの種類なのか,見目の麗しさなのか,ベンチメンバーの様子なのか,決定率的なそれなのか。


個別に気になればたずねていただければ,というところもありつつ。出場選手情報といえば,スタメンは体力のある範囲でわかる範囲で書くようになったけど,交替選手は適当で,書いてるときもワンポイントのサーバーとブロッカーは除いていることがほとんど。これは,書式が定まらないから,というのが理由だったりする。いまだに書式は定まっていない。コピペでさえなく,都度適当に書いている。どうなの。


以前めだまに関するエントリを書いてそのときも思ったが,そんなに難しくなくてある程度概要がわかるようなブログ記述用のテンプレートがあると,いいのに,ねえ。存在しないということは必要とされていないということだろうか,なら何故書く。来年の自分のため。始めに戻る。