引きこもり日和


昼寝もせずずっと起きている。しかしなにもしていない。大河ドラマの再放送を見た後,テレビ朝日で,プロを目指す或る野球選手のドキュメント番組を放送していたのでそれを見ていたら夕方近くになり,しばしだらだらしている間に野球(阪神−ヤクルト)が始まってしまった。


ドキュメント番組は,1992年の夏の全国高等学校野球選手権大会(正式名称未確認)で星稜高校の4番打者を五打席連続敬遠したときの明徳義塾の投手のその後と今をクローズアップしたものだった。


わたしは当時から高校野球にはそこまで関心がなかったので,この時社会問題化した(かもしれない)五打席連続敬遠についても,新聞のオピニオン欄の投稿を読んだ程度で,実際の試合の状況は知らないままだった。今日見ていると,その時のテレビ放送の映像が全打席,放送の音声もそのままで流れた。リアルタイムの声だ。当時のわたしは「なんで(明徳が)そこまで叩かれなあかんの?」と思っていたクチだったのだが,確かに,明徳義塾が2点リードしたあと,無死無走者,とか,9回2死無走者,といった場面でも敬遠するのは,敬遠の意味があまりないというか,敬遠の為の敬遠というか,とにかく敬遠というか,不自然だし最善の策と言えるかかなり疑問の残る部分もあった。


しかし,実況中継のアナウンサーや解説者が「勝負してほしいですねえ」とか「お客さんのためにも」とか言っているのは,(その時はそれがリアルタイムで進行していたのだから仕方ない面もあるにせよ)気に入らないね。高校野球ってのは客は勝手に見に来たり応援しに来ているだけであって,客の為にやっているものではないのだ。五打席連続敬遠の是非そのものについては,高等学校の部活動の教育的見地から見た意味合いなどを持ち出すと確かに話が些か複雑になってきて一概には是非を決めつけられないことではあるが,少なくとも,アナウンサーや解説者の「勝負してほしい」なんて聞く義理は1ミリもないし(そもそも,聞こえていないから),観客のために試合をしているのでもないし。


球場の観客にブーイングまみれにされながら敬遠し続けた彼らの潔さは,見ていて切なさを感じるよ。


一打席でも勝負していたら「伝説」にはならなかっただろうから,高校野球史に残る伝説を作ったという点に於いて明徳の監督もなかなかの演出家であると思うが,その中で被害者(という言い方は適切でないが)は投手だ。バッテリーじゃなくて投手ね。テレビにアップで顔うつりまくるし名前も連呼されるし,なぜか「悪者」だし。


で,彼は実際その後ずっと「松井を敬遠した男」を冠せられて語られる野球人生を歩むことになったのだそうだ(番組に拠れば)そして大学時代はそこそこ活躍したが卒業時ドラフトにはひっかからず,社会人野球を経て日本のプロ野球チームのテストも受けたが契約には至らず,と。


それぐらいでつぶれる野球人生ならそれがなくてもうまくいかない(つまり気にするほどのことではない)という考え方が自然だろう。プロチームであればこそ,それを理由に不採用にするというのはなさそうな気がするし。だから,プロになれなんだのは,単に,彼がそれだけの実力でしかなかったということなんじゃないかと思う。しかし,或いは,無意識のうちに自分の不足を冠の所為にしてしまったり,それ以上の努力が(知らず知らず)できなかった結果の実力不足と考えれば,本人の精神的な問題が大きいにしても100%本人だけの責任というには,高校3年生の肩には荷が重かった役回りだったと思うよ。


こういうのが悲劇的というのだろうか(言わないかな)。彼が自分で解決するしかないことではあるが,監督も,彼のその後の人生の責任は取らずその場の都合で使い捨てにしたのではという感じがして,どうもすかん。監督に言わせれば彼を起用した理由は「いい度胸をしていたから」なのだそうだが。


当時試合を見ていなかったのでわからなかったけれど,彼は背番号8をつけていた。背番号8が先発し完投したのだ。松井の敬遠はともかく,他の選手をきっちり抑えて試合に勝ったのだから,背番号8は監督の見込み通りの恐るべき強心臓だし,それなりにいい投球をしたのだろう(或いは,背番号8を全く攻略できないぐらいに他の選手がへっぽこだったのか。それで県大会を突破できたのか?)。


高校野球の選手の背番号の付け方のセオリーに従えば,8番というのはセンターのレギュラー(スタメン)が付ける背番号ではなかったかしら(詳しくないのでよくわかりませんが)。これが10番などであれば,単に控え投手を出してきたんだな,って話になるんだけどね。


そんなわけで松井と同い年(今年で30歳)の彼は日本のプロ野球を経験することなくアメリカの独立リーグあたりで今メジャーリーグを目指しているのだそうだ。


高校野球の全国大会で甲子園球場の土や芝を踏んだからって,もちろん,みんながプロ選手になるわけでもなれるわけでもない。プロになりたい人はいっぱいいるだろうしその為の努力をする人も多いだろうけれど,それでもやっぱり枠は決まっているのだ。何度はじかれてもふるい落とされても諦めきれず,何十度目の正直,ぐらいでチャンスを掴む人だっているのだろう。しかもその間1チャンスで結果を出さないといかんというえらい厳しい審査が続く。


わたしはピラミッドの一番上の華やかな部分だけしか見えず,そしてそこが好きなのだけれども,その下には多くの元野球少年の野球人生が死屍累々しているのだなぁ,と,ちょいと空恐ろしい気分にもなったものです。


この話はここまでなんだけど,それとは少し別の話で,運動部(団体競技)の人間ってのは別世界の生き物だなぁ,などと思うのだった。理解できるかどうかは(理解する機会や材料がないので)わからないが,まず,想像の範疇は超えている。「○○をして生きていきたい」と強く思うことだとか,その為に審査を受けなければならないことだとかは,団体競技運動部の人生に限定される話ではなくだれもがどこかで通るだろう道ではあるのだが,チームメイトでありライバルである周囲の人々との関係とか,審査される「一発勝負」の一発っぷりとか,他にもまぁいろいろ。身近に知り合いがいる等で直接接する機会もあればまた話は違ってくるのだろうが,なんせテレビ受像器を通してだとか球場のフェンス越しにだとかで一方的にプレーを見ているだけなので,未知の生命体というか,未知の肉体構造と未知の精神構造を有する生命体であるような,なんとも。


ただ,わたくしとしては,あまりそういうのを考えずにお気楽に観ている人でありたい。彼らに彼らの人生なり考え方なりあろうとも,そんなこたぁ必要以上には気にせず。だって娯楽ですから。プレイヤーにとっては娯楽ではないがわたしにとっては娯楽なのだ。深い溝だが,そういう構造によって興行は成り立っているのだよ,と,知った風なことを書いてみたがその方面には全く明るくない。


今日未明の予告(中期的展望)については書かないままになっているな。気が向けば後ほど。(22:13)