足袋は手洗い。ふぃ〜。


足袋と半襟がめんどうだ。足袋はそれでも洗面台でぐしゃぐしゃ押し洗いするだけなのでそこまで手間ではないのだが,半襟は外して洗ってまたつけないといかんので3手間ぐらいかかる。かといって半襟をつけっぱにしておくと,外したときに思いの外汚れていることがわかり,今度は洗濯しても今ひとつきれいになりきらず,それはそれでなんとなく気分が悪い。気分が悪いと分かっていてもあまり洗わないのだが。


着物(所謂着物)を好む理由を考えてみた。


まず,以前にも書いたことがあるように,襟周りのデザインが好きというのはある。襟元がV字型に重なっているのと衣紋(後ろ首のうなじのところ)を抜いているのとで,首周りがすっきり見える。そして半襟がV字を強調している。


しかし,それら着物そのものの形や色柄を好む気持ちがあった上で,そもそもわたしも装うことに興味関心があるんだろうな,と気がついた。でも洋服では勝負にならないから着物に走るのだ。


こういう論法でいくと,あまり楽しいことにはなりませんが。


勝負という言い方も変だけど,着物はまだ着ている人も少ないから,上から下までじろじろ見られたところで他の人と比べられることは少ない。それに,今のところ需要が少ないから洋服のような流行どうたらという話にもならず,数年間同じ格好をしていても問題なさそうだ。


洋服でも流行とは無縁の場所で独自の世界を築くことはできるが,それはセンスを含めていろいろと力が必要になる。「ちょっとぐらいはおしゃれなのがいいなあと思っているけど,センスに自信もないし,あんまりがんばりたくもない」程度の安易な道を進みたい人間は,服を買う時点で(自動的に)商業的流行に乗ることになるので,適当に買い換えていかないとじきに時流に遅れた物ばかりに囲まれることになってしまう。その上周りが同じような格好をしているから,却ってその中での些細な違いが比較対象となる。さらに洋服で痛いのは,違いが体型に直結する場合が多いことだ。例えば今みなさんがお召しになっているようなスカートは,比較的スカートに目が行って脚の形には目が行きにくいデザインではあるものの,それでも並んでみればふくらはぎがきれいな人の方がきれいに見えるに決まっている。


わたしは自分の服装センスに自信がないので(体型は自信云々の域を超越している),人が着ているものや売られているものを見ていいなあと勝手に思っているのは好きだけれど,自分が観られる側には入りたくない。だから,着物は着ても着物着るサークルは怖い。数人の女性が集まれば,そこで比較が発生する。自分のセレクトや感性が他の人と違っていはしまいかとびくびく顔色を窺ってしまい,それがとても窮屈に感じられる(違っている場合すなわち自分が劣っていることである。自信がないからそういう公式が成り立つ)。サシならそれほどでもなさそうだが,女性が三人以上集まったときに流れる微妙な空気が苦手だ。


2大お金持ち系季刊着物雑誌の秋号が揃って出ていて,本屋で眺めつつ,心は秋冬の備えへと飛んでいく。帯がもう一本ほしい。いよいよとなるといろいろとほしい物が出てきてまた散財してしまいそうだが,5月に単衣を買った頃から単価が高くなりつつあるので,買うは買うでもいいけど財布の紐は堅めに締めておかないと。