「はてなダイアリー利用者への100の質問(2004)」の質問の1つにあった


はてなダイアリーでのあなたしか知らない人が実物のあなたに会ったら、どう思われるでしょうか(どう思われましたか)?」について,“親せきのお兄さん”(「なつ休みの思い出」参照)に訊ねてみた。


まず重要なこととして,事前にどれだけ気取ろうとか大人しく振る舞おうとか思っていてもいざとなると地が出てしまうということがあり,わたしは作り上げた別人格なり「仮名」のわたしなりにはなれないということはよくよくわかったものです。


その上で,「文章で感じる雰囲気とそんなに違いはなかったです」(強調部は引用者によるもの)との返答は,自己顕示欲の発露たるWeb日記に於いて文章と本体とがほぼ一致しているということであり,自己表現としては概ね成功していると考えられるのでその点は喜んでいいことと思われますが,所詮わたしは作られた別人格なり(以下省略)ということでもあるので,そのへんはがっかりする気持ちもあります。どう振る舞ってみようが文章の時点で正体を見抜かれているということですからね。その「振る舞い」も装うことができないのだから結果としては同じですが。


「そんなに」というからには細かい部分が違っているのだろうから,そこのところは気になります。


一方“親せきのお兄さん”については「やられた!」の一言。うぅむ。表面に惑わされてはいけない。細部の情報も余さず考慮に入れなくてはならない。そう,確かにコメント欄でやりとりしたことがあったわよ日常の使用言語についても。


改めて,岡山弁を話せなくなっている自分。年末年始に帰省する度に感じていることではあるけれど,最早,周り中が岡山弁の環境に囲まれてさえ,岡山弁が口をつくようになるまでに数日を要する。ましてほんの数時間の間に少し話を交わしただけでは外つ国(とつくに)の言葉に近い。うむー。かなまるに「故郷を捨てた女」とからかい半分に言われてしまった。ふじ○らせんせじゃないんだから(尤も彼はああ見えて実は故郷を捨ててはいないようだが)。


外つ国は言い過ぎにしても,自分が以前話していた言葉という感覚や懐かしさはあまりなく,まるでよその方言を聞いているようにも感じられた。ただ,今回の場合,実際に「よその方言」である可能性も否定できない。初めは「おぉ,岡山弁だ」と感動したのが次第に「これは岡山弁ではなく広島弁じゃないか」と感じだしたのが,その違いがどこにあるんじゃーと訊かれても,もう,説明するだけの力量(岡山弁力)がわたしにないのは残念なことだ。もう少し岡山弁(旧衆議院岡山1区)に慣れた状態であれば具体的な違いに気づけたかもしれないが,日常から抜けてしまっている。それ故,身近さや懐かしさが感じられなかったのが単に日頃使っていないからという理由で,身近な(例えば家族が話しているような)岡山弁でも同じように遠く感じるのか,それとも言葉そのものに違いがあるから遠く感じたのかは,判断できない。両方の原因が複合しているのだろうとは思いながらも。


話し言葉の体裁を採った書き言葉でつづられた文章から受ける印象がそのまま書き手のイメージを形成していたので,主として使用言語の違いに伴う印象の違いは,結構大きかったものです。この話をかなまるにしたところ,文体から受けていたイメージについては「たけやくんみたいなの?」と。そう意識してはいなかったけれど,言われてみればタイプとしてはそんな感じかな。童顔というか少年っぽいというか。しかし実態は普通に年相応の青年でしたよ。当たり前だっつぅの。少なくともわたくしが「おねえさん」然と振る舞うようなことにはならず,これだからK戸ちゃんに「おねえさん」扱いしてもらえないんだろうなあとも思われるものでした。


現代に於いては一般に日常の私文書は口語体(時にはまるっきり話し言葉)で書かれる。だから実際の話し言葉も「そのまんま」だと思ってしまいがちだが,やはり書き言葉と話し言葉とは異なるということだろう。かく言うわたしも,自覚はないが,話し言葉的な書き言葉と実際の話し言葉とは一致していないのだろう(文章中には書き言葉的な文体と話し言葉的な文体が混在している。この段落は書き言葉的であろう)。


一応似非標準語(モドキ)を使うようになった今のわたしにとっては,文章に用いる口語体が標準語であれば話し言葉も標準語だろうと無条件に思い込んでしまうが,思い返せば確かに高校以前のわたしであれば,文章はどうだったか知らないが,標準語モドキを話すことは不可能であった。


そして,現在父親がわたしに送ってくるメールの文章も岡山弁ではない。方言は通常のインプットメソッドのかな漢字変換では変換しづらいので扱いづらいという理由もあるだろうが,扱いが容易であれば岡山弁を打とうとするとも考えにくい。やはり,そもそも口語と文語では文体が違っていると考えた方が自然であろう。そもそも,IMEに限定される問題ではなく,岡山弁に限らず方言が持つ音韻にはかな50音では表現しづらいものも多く含まれており,もともと字で書く為の言葉ではないのだ。


なお,100の質問に対する全回答は8月15日に掲載しています。