贈り物論(まだ続くのか)


アクセサリを贈られること,或いは贈り物としてのアクセサリについては,以前にも書いていた。プレゼントされるならシンプルやノーマルなデザインの物,デコラティブだったり凝ったり遊び心があったりは自分で買う物,と,自分はそう分けて考えてしまうけれどその線引きの根拠には説得力はない,といった内容。わたしがそう考えるのが自らの贈られ経験に由来することも。このころから考え方は変わっていないということか。


男性への贈り物。道楽娘さん日記(12月16日)に書かれていたメジャーどころ“タイピン,ネクタイ,ハンカチ,靴下”。この内の少なくとも2分の1は父親への贈り物が該当するのは,ちょっと「あちゃ〜」かも。


父親ってのは,わかるようでわかんない存在だから。でも,わかろうとしていないだけかもしれない。別にそれらが悪いわけではないけれど,脳みそ使ってない,安直に逃げているだけのような気もして。


外すよりはいいけど。


該当するのはネクタイと靴下。靴下は一度だけ(父の日だったかと)だけれど,ネクタイは「困ったときのネクタイ頼み」か,とにかく多い。母親との共同出資時代から累積すれば,“彼のネクタイの中の44分の1はわたしからの贈り物で占められているといってもいいくらいです。”


わたしの父親は仕事に行く日は毎日スーツを着て毎日ネクタイを締める。彼は見た目に凝らない人なので(たぶんね),実際には数本だけでローテーションを回しているようだが(1週間のうちにローテがめぐってくるぐらいだったような),それでも毎日締めていれば薄汚れてくるから,十年一日というわけにはいかない。


それをいいことについ「あって困る物ではないだろう」との短慮でネクタイにしてしまう。服装について小うるさく言わないからこそ,厭な顔をされたり突っぱねられたりもしないし。


しかしそろそろ供給過剰ではあるまいか。特に就職して小金が入るようになってからは妙にネクタイを贈りつけている気がする。今更増やさなくてもローテは確立しているだろうにそこに参戦するわけだ。娘からのプレゼントであれば本人の好みやそれまでのローテに勝ってしまう力があるだろうと勝手に決めているフシもあるが,わたしからのプレゼントだけでそれなりの数になっていてすでに除外品も出ていそうだ。同じ無難路線でもどう考えても靴下の方が消耗品で需要がありそうだ。そろそろやめたほうがいいのだろうな。


無難(考えなし)でない贈り物に越したことはないが,本人に「何がいい?」と訊いても,「ベンツ」「現金○万円」の類の答えしか返ってこないのでらちがあかない。とは言え離れて暮らす今,彼の日々の生活や趣味嗜好,欲しがっているものなどなどを当てるのは容易ではない。


それにネクタイって,選ぶのが楽しいのだ。ずらっと並ぶネクタイを見ていると「あれも素敵,これも素敵」と目移りする。そして欲しくなる。だけど自分は使わない。


ひょっとすると,購買意欲を満足させるために「プレゼント」の名目で買っているんじゃないだろうか。思い返すに,着用する本人そっちのけで単に自分の好きなネクタイを選んでいる気がする。どうやらこれは相手のことを考えたプレゼントというよりも,娘たるわたしの父親への甘えの現れのようだ。