本日の日記には「マリア様がみてる チャオ ソレッラ!」(今野緒雪,集英社コバルト文庫)のネタばれをかなり含みます。
ネタばれを好まない該当書籍未読の人は残念ながら何かを諦めてください。また,例によって褒めそやすモードではありませんので,該当書籍を心底愛している人も読まない方が平和な心情を保てて良いのではないかと思われます。
大学で2年間第2外国語としてイタリア語を学習していたはずだけれどそれも今や昔(7〜8年前)の話,今回のストーリィが<修学旅行でイタリアに行く話>であることを知り,サブタイトルが「チャオ ソレッラ!」であることを知っても,本文中に解説が出てくるまで「チャオ ソレッラ!」の意味はわかりませんでした。有り体に言えば“チャオ ソーレ!”(“めんそーれ”ではない)の意と半ば勘違いしていたのです。
お話への感想は特にないのだが,冒頭の「赤いパスポートを握りしめ,」(上記書籍からの引用,以下同)でまずわたしは“あれ?”と首を傾げた。これは本文中ほかの箇所でも数度登場する。次に,通貨が記されていないこと,ローマスペイン階段で「中にはアン王女を真似てジェラートを食べている人もいる」こと,ピサの斜塔に上っていること,あたりに,“あれあれ?”。
うぅむ。わたしがイタリアに行ったのは1998-1999年なので,当時と今とでは状況も違っているだろう。成人してからも今年で8年目になるし。などと無理矢理納得させつつ読み終えて,あとがき。「書くことによって,物語の時期が限定されてしまうのは困ります。だからといって,それらを避けていたら,今度は物語の内容が制約されてしまいます。それでは,本末転倒でしょう?」
ということで,作者はわざと,通貨の単位を出さない,工事や(美術品の)貸し出しについては,考えない,ということにしたんだそうな。作者は,作中の時間を実在の世界の時間に比定したくないらしい。「作者自身がどこにも当てはまらなくていい(むしろ当てはまらない方がいい)と考えているんですから」とのこと。
つーかさぁ。それって,最強の言い訳。それを言われたら,何も言えなくなってしまう。でもでも,そもそもフィクション小説というものは,作者のスタンスに関わらず,どれも<この物語はフィクションであり,実在の人物・団体とは一切関係ありません>の類なのだ。いっそ作者には<東京の地名は出てくるが物語世界の東京であって実在の東京ではない>とか<イタリアの地名や事物は出てくるが物語世界の東京であって実在のイタリアではない>ぐらいまで言い切って欲しかった。何時とも比定できない時間の流れの中で話が進んでいる(進ませている)と示した以上,そのような表現で明記せずとも言わんとしていることは同じなのだけれど。なにも変に時間の話だけしなくても。
しかし,フィクション小説は元来そういったことを含んでいると理解しているつもりでも,実際に読んでいて自分が認識している世界とのズレ(そのズレ幅も場合によって異なる)に出くわすと,頭がぶれぶれ(ぐらぐら)になってきて,なんとなく酔ったようなどことなしに落ち着かないような,妙な気分になるものだ。
ところで,「チャオ ソレッラ!」の意味については作中で明らかになるのだが,これも明らかになると同時に,あああああああああああああああ(なんか妙だ,なんか違う気がする)……(しかし。しかしだ)確かに……(こう訳すしかない)なぁ。という気分になった。帰宅後和伊辞典と伊和辞典を引いてみたが,やはり一般の辞書ごときでは用例として載っていない。単語単位で検索してみて,直訳するならこうなるしかないかな,とかとか。
そもそもイタリア語を使う文化ではあまりそんな表現をしそうにないので,一般向け一般辞書ごときには用例が出てこないのだ。しかし,そのような表現は絶対にない,程でもなさそうで。
で,漸く気付く。微かに感じた違和感の正体は,単数形の名詞が冠詞もなんも無しで用いられていることにあるのではないか,と。もちろんあいさつ(呼びかけ)なので,冠詞だのの文法事項がどのぐらい適用されるのかわからない。そんなこたぁ第2外国語をちょろっとやったぐらいじゃ到底わからない,ネイティブの人に確認すべき領域だと思う。けれど,やっぱり“Ciao, mia sorella! ”の方が“Ciao, sorella! ”よりなんぼか納まりがいい気がしませんか? “Ciao, Sachiko! ”と書かない(日本人感覚では畏れ多くて書けない)のなら。実際に“ごきげんよう,お姉さま”をネイティブの人に訳してもらったときにどう言われるかはわからないのでこれが正しいと思わないように。
明日(もう今日になったが)早いので,もう寝ます。
<好き>という気持ちは,多かれ少なかれ「優先欲」を伴うものだな,と感じた。それは人を対象とした場合に限らないだろうがそこまで言い出すとただでさえ矛盾と論理破綻が多いのがますます手に負えなくなりそうなので,人に,そして恋愛感情という言葉と近い範囲の<好き>に限定する。対象者に優先されたい欲求及び対象者を優先したい欲求。身勝手なのは,自分だって第一優先でないくせに対象者からは第一優先にされたいなどという虫のいいこともつい感じてしまうあたりか。
や,もちろん,真剣に「僕の一番はきみだ」と言われたら,真剣に応えるに当たっては躊躇どころではないのだけれど,そのくせして,常にそして永遠に3番以下(いや,4番以下だったか)を断言されると,恋愛感情だかなんだかを伴っていない(はず)にも関わらず,なんとなく物寂しい気分を味わってしまうのは,なぜなのかしら,ねぇ?
負けん気?
あ。今気付いたけれど“Hey, brother! ”ってアリだよね(何となく)。じゃやっぱり“Ciao, sorella! ”?(00:19)