きょうはタイトルだけ,ヒキの良さそうな固有名詞をもってきてみました。

バレーボールの女子選手は,結婚していない人が圧倒的に多い。男子はそうでもなくて(どちらかというと結婚していない人の方が数では多いと思う),自分が産むわけじゃないから子どもが居る人も多いんだけど。女子は多くの選手が高卒で入るので歳が若いということもあって,結婚してないものと決めつけがち。なので,月バの臨時増刊「2004 チームの顔」(購入してしまった)の女子選手のプロフィールで「既婚」と書いてあると,まず誤植を疑ってしまうくらいで。


でもそんなところで誤植はしないものらしく,現役選手で若くて既婚って珍しいなぁ,誤植か? なんて思ってページを捲ると,次のページに今年の夏場に結婚した云々の記事が載っていたりする。なるほどー。で,結婚したからといって登録名を変える選手は,これまたあまりいない。途中で変わるとユニフォームを作り直さなくてはならないものね(そういう理由ではないと思うけど)。逆に変わってると驚いてしまったりして,名字を変えるのにはなんかやましいこと(過去の自分と切り離したいとか)があるんじゃないかと,邪推邪推(ないと思うけど。北の国に帰ったんじゃなかったのか)。


田村亮子が婚姻届を提出した日に,外でインタビュアに囲まれて「今日から谷亮子です」発言。それについてT×Sの×ロードキャスターで或るコメンテータが,せっかく業界で広く知られている名前を変えるのは勿体ない気もするというようなことを言っていた。そこまでは同感だけど,そんなん本人の自由だ。それに,少し考えてみると,一戦一戦の結果がすべてであって今までの実績や知名度って本質の部分には全然関係ないんじゃないかと。名前で売っている商売ではないでしょう。


それはそれでいいとして,それに続いた,“結婚相手の姓を名乗りたがるところに女性らしい一面を見た”云々の主旨の発言に,ハタノ切れる。


そんなことを「女性らしさ」の基準にしないでください,お願いだから。


誤解の無いように書き添えておくと,わたしはけして男女別姓支持者ではない(男女同姓支持者でもない)。長年夫婦が同じ姓を名乗ってきた文化で産まれ育った以上,姓が同じであること(同じ姓を名乗ること)に夫婦としての一体感を感じたり,好きな人と一緒になれる喜びを感じたり,するのは,別におかしな心の動きではないだろう。


しかし,そんなんは人それぞれだと思うのね。今更書くまでもないけれど,結婚しても姓を変えたくない人もいるし,配偶者と同じ姓でなくても良いと考える人(“なくても良い”というと消極的ですね。配偶者と同じ姓を名乗ることに特別な意義も見出さない人,か)もいる。それは考え方とか感性の問題であって,そこにどっちが近代的とかどっちが偉いとかどっちがうーまんりぶ(死語)とか,そういう上下差は無いでしょう。逆に,配偶者と同じ姓を名乗ることに喜びを感じる女性を前時代的であるとかそういう女性がいるから(以下略)とか言う女性が世の中をひどくややこしくするんだ。


ましてや,それとジェンダーとは,何の関係もないんじゃないか? “結婚相手の姓を名乗りたがる”のは確かに「可愛らしい」感じがする。するんだけど,公共の電波放送でもってそういう発言をへろっと,しかも「女らしい」だか「女の子らしい」だかといった表現でするのはちょっとねー。結婚相手の姓を名乗りたがらないタイプの女性は女性らしさに欠けているのか? それは「女性らしさ」の指標なのか?


さらに深読みをしていくと,柔道選手という肩書きに「男性らしさ」指標を見出しその上で“柔道選手なのに女の子らしい一面もある”という論理が展開されているところが,さらにむ〜。彼女は,もともと女性アスリートの中ではそういった一般的に「女性らしさの指標」と考えられている各種指標において女性らしいポイントの高い人だと思うんだよね。例えば,いつも髪は長いし若いころ結わえていたゴムの色は赤だったし。48kg級ってこともあって体格も小柄だし(柔道着なので筋肉質かもしれない体格も前面には出ていないし)。そういうのを「女性らしい」というのであれば。そういうステレオタイプ指標によって立てば,彼女を語るに際して「柔道選手でありながら」という枕詞をつけること自体,どうかね。女の子だけど男の子を投げ飛ばせるのが楽しかった,といったあたりも,せいぜい「男勝りの女の子」でしかなく,ジェンダーの重点は常に「女の子」にある人だと,これはわたしの私見に過ぎませんが。柔道選手に限らず,スポーツをする=女性的でないという土台に立って物事を考え始める時点で,まず,どうかと思うんだが。


なんだろうなぁ。まぁいいんだけどさ。女の子らしくても。わたしはきっと女の子らしさに欠けているわけだね(僻み)。今更改めてそんなことで僻まなくても,誰がみても所謂女性らしさに欠けていることは明らかである。(00:43)