きのうの貯金話の続き


後になって思ったのだが,結局わたしの意識の根底に「貯金=減らさないもの=多い方がいいもの」という認識があるからこそ,「近い将来に使う予定が具体的にあるお金は貯金には含めない」といった考え方をすることになるのだろう。「究極的には使わなければ価値がない」と書いてみたところで,ほんとはそうは思ってないってことだ。


わたらせさんがリファ下さった中でふむふむと思ったのは,



貯金に関しては「××貯金」という言葉もある。例えば「旅行貯金」「パソコン貯金」など。要するに何に使うために貯めるかが実に明確になっている貯金。


 この「××貯金」と、「貯金はいくら?」と問う時の「貯金」では随分と意味あいが違う。

 後者はむしろ「資産」に近い意味だ。近い将来使うことが分かっているものは含めない気がするのも共通しているし。(はてなダイアリー 似非と現実の日記


単に「貯金」と言ったり聞いたりしたときにどっちを思い浮かべるかは人によって違うだろうな。


お金には詳しくないのでこれらの言葉の定義や使い分けの基準もわからないので,適当なことを書いてしまうかもしれないが,こういうことだ。


つまり,お金には,何かの価値と交換するという働きだけではなく,貯金額によってその人自身の価値なりステイタスなり金持ち度合いなりを示す指標としての働きもある,ということ。貯金額がイコールその人の経済状態を表すものでもないことは少し考えればわかることだし,金持ちの人には価値があるとか社会的地位が高いという考え方はナンセンスではあるが,少なくとも,貯金(ここでは資産に近い意味)額に対してそのような考え方・受け止め方をすることもある,できる,という現実は否定できないだろう。


ぶっちゃけて言えば,貯金たくさん=エライ,という等式が頭の中にあるかどうかっていうことね。


この考え方そのものを否定・非難したいのではない。わたしがたぶんそうだろうと気づいたという程度の話だ。なんせほんの数年前までわたしは“お金を使えない人”だった。なんで使えないのか自分でも分からなかったのだが,要するに,「お金は使うものではなく貯めるもの」と認識していた背景には「貯金たくさん=エライ」という考え方があり,偉くなりたいという願望があった,ということなんではないかと。


そういう指標の意味付けをこめて行う「貯金」は,額が多いことが良いことなのだから,貯める・増やすことそのものが目的であって,減らすことは想定しない。この場合のお金の使い道は強いて言えば「貯金」になるのかな。それはそれで,お金の一つの使い方だと思う。


ついでに言えば,かつてわたしは銀行口座とは財布の代わりではなく貯金をする場所だと思っていたので,一ヶ月の間にがんがん減っていく数字を直視するのが辛かった。しかしそれももう慣れた。増えれば嬉しいが給料振り込み直後の数字を維持できないのは当たり前のことなのだ。


その後しばらくは,翌月の振り込み前にその月の振り込み前の数字よりも多ければ喜ぶ,という,単純な図式を採用していた。が,その方式で行くと旅行に行ったり洋服や靴を買うたびに「無駄遣いしちゃった感」に苛まれるということに気づいて,とうとうそれもやめてしまった。つまり,通帳記入をしなくなったし残高もそれほど意識しなくなった。自分のお金に無頓着なのはいいことではないし予実管理がなってないのもほめられた話ではないが,使用目的のない(蓄財のための)貯金は今のわたしにはあまり意味や価値がないという考えにようやく頭がシフトしつつあるのは,それまでのわたしの窮屈な消費生活から考えれば,わたしにとっては良い傾向なんだと思っている。