ところでどーして木蓮だけあんな極端に派手な容姿だったんだろう
「BASARA」(小学館フラワーコミックス)を読み終えたので,「ぼくの地球を守って」(白泉社花とゆめコミックス)に取りかかりました。今日は3巻まで。
同世代の漫画を嗜むヲタク女子ならばその名を知らぬ者はいないだろうというぐらいの有名作品。中学時代にクラスの女子だったか友人の友人だったか,ともかくその手のヲタク女子ネットワークを経由して少しずつ借りて読んで,ほぼ通しで読んだんだけど,レンタルローテのぐずぐずの谷間に入って,後半佳境の何巻分かが未読だったと記憶している。なので,結局何がどうだったのか把握できていなかったはず(最終巻は読んだはずだけど)。同時期似たような読み方をした作品にスラダンがある。
物語の始まりの舞台が1991年の東京,漫画自体は1980年代の半ばに連載開始。あちこち(たとえば裏のカバー見返しの煽り文)に80代少女漫画らしさが漂っていて,今読むと時代を感じる。また,当時は一般に知られていなかった知識に属する部分などで,今ならば通らないだろうと思える表現もある。それらも含めて作品だし表現の自由なんだが。時代の隔たりを感じると同時に,当該作品がすでに古典の域に達しているように感じてしまうのはそのあたりも一因か。
例によって話はほとんど覚えていないので(自分にしてはよく覚えている方だと思ったけど),のんびりやっつけます。しかし21巻も引っ張るような内容だったっけね。
「ことばと国家」は無事読み終わりました。英語っぽい構文の文体だけど読みづらくはなかったし,書いてある内容もわかりやすくて面白かった。巷に溢れる「そうゆう」表現にいちいち突っかかってしまうのは科学的なアプローチではない。でも,慣れは慣れだからなあ。違和感はあるよね,どうしても。いったいどういう条件を満たせば,最初は誤用とされる表記・表現が「市民権を得た」状態になるのか,その境目はどこにあるのか。「そういう」を「そうゆう」と書いたって誤解はうまないし実際の音にも近い。ここ数ヶ月〜1年で目立ってきた気がして,近く市民権を得るかもしれない。「辞書に載らないうちはNG」というのも,一つのわかりやすい基準の設け方ではある。
「相棒」ノベライズの2下を購入したので新書は一時中断。