久しぶりに値札が4桁の本を買った。

所持金が100円ぐらいになったところで銀行で預金を2千円下ろし,その5分後に1400円の本を買ってしまった。やはり不用意に現金を持ちあるくべきではない(が100円しか持ってないのも不安が募るものだ)。


買ったのは保坂和志「書きあぐねている人のための小説入門」。文庫・新書以外の版型の本を買ったのは(タイ語の教科書を除いて)いつ以来なのか,記憶にもない。


そこまでして買いたいと前々から考えていたわけではもちろんなく,たまたま電車までの時間潰しにふらっと本屋に立ち寄ったら角っこのところに平積みにしてあって時間もなかったのでなんとなく買ってしまったのですが。


小説を書こうと本気で考えているのであれば,この種の本を読む時間があったらその時間を使って書くので,これは純粋に読み物として買ったのです。ちょっとおもしろそうだったのよね(単行本だからカバーの用紙や装幀もおもしろいしね/しばらく買ってなかったから,抵抗力が弱まっていたらしい)。


といって,書いてみたい気持ちが全く無いというわけでもないんだけど。しかし,具体的に何か書きたいことがあるわけではない。つまり,ただなんとなく小説なるものを書いてみたいとぼんやり思っているというどうしようもない状況なわけですが,そんな状況でもエディタに向かうと「たわごと」はしゅるしゅるっと書けてしまうことの方が多いので,この差はやはり習熟の差(経験の差)なのかしら。


“書きあぐねている”と言われる間でもなく,確かに書けないもんだよね。なんも思い浮かばない。なにか1つ小さなものが思いついても,広がっていかないし。


考えていて,雑文を書くのと所謂小説を書くのとの違いは写真とお絵かきのそれと似ているのかもしれないと思った。つまり,両者は似て非なるものなのではないかしら,と。どちらがより高尚とか高度とか芸術性が高いとか低いとか,そういう比較はできない。ただ,違いはある。周りで出来する様々な出来事をどう感じてどう書くかというところに主眼が置かれる雑文書きは,素材自体は自分以外がつくったものに依存しているわけですな。一方で小説を書くというのは真っ白い画用紙の上に1から構築していかなくてはいけないイメージ。


才能の方向性としてどちらが適しているかは,事実に基づいた作文を書く教育はされても小説書き教育はされていないので,経験値に差がありすぎてなんとも判断付きませんが(写真教育はしないのにお絵かき教育はするのとちょうど逆ですね。それは喩えが違ってくるか。),向いているいないとやってみたいかどうかってのはまた別問題で,それで商売しようってんでもなければ一発当てようと思っているわけでもない。“個人的に楽しむ”範疇であれば,何をどうしようが勝手なのですが,そんなことはどうでもよく。


本気で書こうと考えているのであれば,書くでしょう。ぐだぐだ難癖つけて書こうとしないってことは,別に書こうと思ってはいないってことでしょう,きっと。(23:14)