まずは昨日の「流転の王妃」の件

流転の王妃の昭和史」を本屋で確認したら,「中国」って書いてたしセリフ部分も「中国」ってなってました。戦後に出た本だからとかぶつぶつ言うつもりはなく,わたくしの思い込みであったと認めるものです。溥傑が亡くなったのが平成6年とのことで,ぼんやりそんな新聞記事を見たような(気がするのはきっと気のせい)。


母校の名誉の為に。わたくしが「当時は“中国”とは言ってないんじゃない?」などと言うのはけして在学中にそういう風に仕込まれたわけではなく,高島氏の文庫本を読んだからです。これで随分と影響を受けて(本に書いてあることをすぐ信用するわたし),その頃の「たわごと」にも何度か書いたんだけど…ログを検索するのが面倒だ。自分の名誉の為に。“悪気はない”とか“もともとは悪い言葉ではない”と言った理由で相手の厭がることでも理屈を押し通そうとする考えを持っているものではありません。高島氏の文章とて,そういう主旨ではない。ただ,自分が知っていることが真実の全てではないし正義でもないということに気付かされたという点において衝撃的だったのです。


それにしても,国の呼称が謎に包まれているのは昔も今も変わりませんね。フィンランドが「スオミ」とか。逆にイギリスがイギリスとか,アメリカがアメリカとか。日本は,いーぷんとかいるぼんとかりーべんとか,北京語よりもタイ語や韓国語の方がなんとなくわかる。じゃぱんとにほんじゃえらい違うようにみえるけど出所は同じなんだね,と気付くと楽しい。中国がシナだったのはchinaだからだとわたしは勝手に思っているのだが(そんな逆輸入あり?),Chinaの語源は秦なんだそうだから,昔のそれもほんの僅かの期間しかなかった王朝なのに影響力は絶大ですな。ほんとうであれば。日本語の音では「シン」という同じ音になる王朝がいくつも(秦とか新とか晋とか清とか)あるけど,きっと同音ではないのでしょう。


†ちょっと情緒不安定化することが出来して

かなまるにぶちぶち。深夜の長電話ぐちぐちに付き合ってくれた。こういうとき,わたくしは一心に感謝して,有り難い気持ちになるのです。普段その気持ちを忘れずにいられればよいのですが。あと,そういった気持ちが態度に(行動に)つながらなくては,なかなか謝意は通じないのでしょうが。


かなまるに対していらいらすることだってあるのだけれど,今のところは,総合的にはかなまるが面倒をみてくれていて助かっているのだと思う。わたくしとわたくしの母との関係は,かなまる曰くけして良いものではないそうだ。かなまるはそれを気に掛けてくれていて,なろうことなら改善させようと考えているらしい。それが自分本位であったとしても,そんなことは問題ではない。


彼女との関係(仲が悪いというのとはちょっと違うです)が改善されるかどうかはともかく,わたくしにはこうして,周りが見えなくなったとき(よく視野狭窄に陥るものですが)に,ちゃんと周りを見せてくれたり行き先のヒントを与えてくれたりしてくれる人がいるからこそ,なんとか留まっていられるのかなぁと思うのだった。母親とわたくしとの関係はまさに「お互い様」でわたしにも大いに問題があるそうなのだけれど,だから結果としては変わらないのだけれども,違いがあるとすれば今のわたしにはかなまるがいるけれど,彼女は彼女のこれまでの人生の何処か大切な時期にそういう人がいなかったのかもしれない,と。他人に頼ること自体の是非はおいておいて。ただ,そういう見方をしてしまうことが既に,わたしの彼女に対する誤った認識のあらわれであるように思えてならない。別に彼女は「可哀想な」人ではないし,かなまるはそこまで立派な人間かどうかまだわからないし,彼女の周りの人達がどんな人達なのか,そして彼女が今までどんな人達と関わり合ってきたのか,わたしは知らないしよくわからないから,知りもしないのに決めつけることはほんとうは出来ない。わたしにわかることは,少なくとも彼女の夫は彼女にとって“そういう”に足る人ではないということで(それを期待していなければ問題は発生しなかったのだろうけれど,きっと彼女は夫なる人にその役割を求めていたのだろうと考えられる),それが故に彼女は苦しんできたしそれを今でもどうやら引きずっているらしいということぐらいで。わたしの目に映る限りでは父親の方が筋の通った考え方の持ち主であるし,「おとうさん」と「おかあさん」は平等な存在なので,彼女の苦しみはなかなか慮れないんだけどね。オトナの世界はむずかしい。きっとコドモのわたしの知らないところで色々あったんだろうと,その辺はつい母の味方をしてしまう。(02:16)