たしかにそのときわたしは隣に座っていた女性を突き飛ばしたのです。

わたしもうとうとしていたからいつからそれが始まったのかは分からないけれど,左隣に座っていた女性が体を揺らして居眠りを始めた。本人,寝てはいかんと意識しているらしく,がくっと揺れてははっと意識を取り戻し,でもまたすぐにぐーらぐーら。


初めの内は,“隣の人,居眠りしてるなぁ”とぼんやり認識していただけだったのだが,それがどうも次第にわたしの方に体重がかかり始めた。わたしもね,赤の他人にもたれかかって居眠りをしていることはよくあるし,もたれられることも珍しくない。おとなしく肩の辺りにもたれていてくれたなら,気にはならなかった。しかし彼女は上体が横揺れを続けたまま,けっこうな勢いでわたしにぶつかってくる。それも不規則に。わたしが持っている傘の柄が顔に(或いは目などに)当たりはしまいかと冷や冷やすることもあって,だんだんといらいらしてきた。たいへん身勝手な言い分ではあるが,わたしだって眠いのだ。まこと人の世は権利と権利のぶつかり合いで(どっちも寝るな,と言われればそれまでですが)。


で,どうにも我慢がならなくなったとき,わたしは腕で,そっと彼女を押しやり,“ぐらぐらするのはよしてね(はぁと)”と伝えようとした。つもりだった。


したら,びくっとした生体反応が見られたと思うやいなや「ごめんなさいね人質が解放されるまで眠れなくてあなた最新情報知ってる?」。予想外に力が入って,突き飛ばすみたくなってしまったのね。あちゃーとは思ったよ。それじゃまるでわたしが狭量な悪人みたいじゃないか。自分だって寝ているからお互い様なのにさ。しかも声まで掛けられるし。汗。(文句を言い返されたのでなくて良かった)。


しかし,わたしがぼんやりした人間だからこそ「すみません,起こすつもりはなかったんです」と答えたけれど,今よりも何倍も頭の回転が速かったら,彼女に「誰か人質になっているんですか。」って訊いていたかもしれない。


だいたいにおいて寝起きというのは間抜けなことを口走るもので,ましてそんな風に居眠りをしているくらいであれば,隣の人間(つまりわたし)に突き飛ばされて(?)目が覚めたからって,すぐにまともなことが言える方が稀だろう。なので彼女に何らかの咎があるわけではない。なにせ,その発言を聞いて正直なところは「はあ?」と感じたわたしもまた,寝起きのぼーっとした頭なのだ。


この場合に於いては,常識的に考えて「はぁ?(誰か人質になっているんですか。)」の方が難癖にしかならないだろう。首都圏の朝の私鉄の車内に居る日本語会話が可能な成人で,彼女の「ごめんなさいね人質が解放されるまで(以下略)」が何を指しているかが分からない人は,いったいどれぐらい居るだろう。思わず「なんでそんな,誰もが興味関心を持っていて当たり前,みたいな話し方するわけ?」と感じてしまったわたしも,実際には即座に何を指しているか分かったのだから(それが別の人質事件でない限り:今だったら別の人質事件の場合,断りを入れるような空気がある)。悔しいことに(悔しいのか?)


で,仕方なしに,先に書いたように「すみません,起こすつもりはなかったんです」と答え,それに対して彼女が「居眠りしていたわたしが悪いんだから」と返してきたことには「いえ。」と答えて,あとは当初の目的であるところのうつらうつらに集中しましたけども。


この一件のおもしろさをうまく書くことができず,ちょっと口惜しい。なんつぅかまぁ,日々たわごとでも,読者がその前提知識を有しているかどうかには恐ろしく無頓着に,自分が書きたいことを書きたいところから書きたいようにだけ書いているので,赤の他人のその手の発言に無神経さを感じるわたしは「自分のことを棚に上げ」なわけですけども。自分ができていないことの方が,他人の中に発見したときにむっとしがちなのかも。