話は少し逸れるが


これは身内の恥なのかもしれないけれど,祖母は朝鮮人や部落の人(敢えてこう書きます)に対して差別意識を持っているようだ。わたしが幼い頃,東洋の民族衣装に対する純粋な興味関心からチャイナドレスやチマ・チョゴリを着てみたいと言ったら,特にチマ・チョゴリに対して彼女に反対され,理由が全く分からないためたいへん不可解な気持ちになったものだ(余談になるが未だにチョゴリについているリボンの構造が分からず,一度着てみるか近くで観察してみたいと思っている)。部落差別にしても,小学校から高校までこってりと同和教育をされたので,祖母の差別意識はナンセンスと思っていた。その思考がどこから発するのか分からなかった。


それは彼女の思考の傾向や性格もあるのだろうが(差別的という意味ではなく,自分についても他人についても後ろ向きというか否定的というか負の発言がやや多めかな,という感じがする),彼女が人格や思考の骨格を形成した時代の社会的背景(当時の一般的な考え方)の影響を強く受けているように感じられる。戦争を経験している世代の考え方といっても,何も国体や天皇や軍事的なことに対する意識だけではなく,そういった部分にも世代差というか時代差があるのだなぁと思う。


目下ヤンソギルの「夜を賭けて」を読んでいるが,昭和30年代に入っても現大阪城公園はそうだったのかと思うと,戦後の五十数年は長いなあと思うよ。その間ずっと生きてきた人はこの変革の中で生きてきたのだ。それを思うと気が遠くなる。つまり,わたしがあと50年近く生きながらえたとして,その時世の中はどのように変化しているのだろうと。何事につけ「今がいい」と感じるわたしにとっては,それは,想像すると結構しんどいことなのです。


ま,基本的にはヒトは進歩・進化しているという考え方に立ちたいものだけどね。


それにしても,スポーツの国際大会に於ける国粋主義に辟易している自分だけど,その根っこにあるのが,自分が(悪い意味での)民族主義者だからではないかとふと思いついて,ぞっとした。そうではないと思いたいものだ。


日本の代表選手は日本国籍を有している(だろう,しらんけど)し,そうである以上日本人だし,だから素直に日本の応援をすりゃぁいいのだ。日章旗振ってる人間は器が広いのだ。応援しないわたしが狭量なのだ,きっと。


日本,好きですよ。日本って何だろう。法律や行政や司法を一にする一政治単位(政治体制)なのかな。政治的にも安定しているし治安もいいし経済面はいうことないしインフラも整っているし気候も悪くないし,住むにはとてもいいところだと思う。日本の制度の中で日本という土地に住むことができるのは幸運だ。


江戸時代の領民が勝手に他の領地に行くことができなかったということを,封建政治下の「悪いこと」のように考えがちだが,今だって生まれた国(或いは両親の国)から勝手に他の国に行くことはできないのだから一緒だ。だけど,条件が整えば,日本の制度下で日本の領土に住みたいと考える他の国出身の人が日本国民となることは可能だし,(国籍の意味での)日本人の定義なんて,そんな程度のもんだろう。


突き詰めていけば自分だけが大事と考えている人間であることは自覚している。かなり排他的な人間だろうと思う。日本国籍を有する人間(或いは日本国籍を取得しようとする人間)を日本民族と同化しようという考え方をわたしはとても嫌っているけれど,それは,日本という国の中で様々な民族がそれぞれの文化等を尊重しあいながら生きていこうといった考え方に立っているからではなく(表向きはそう思っていると自己認識しているわけだが),裏を返せば,もしくは一枚皮を剥げば,自分の純血主義みたいなものが流れているのではないかと。つまり日本民族じゃない人もたくさん混じっている日本代表を自分の仲間として応援する気持ちになれないとか,中途半端に興味を持ったり知識を得ようとすることも根底に魔女狩り思想があるのではとか…………ここまで来ると疑心暗鬼的でもあるのだが……そんなことを思いつくからにはそういう考え方(意識)を持っているということで,そういう自分は我ながら,どうしたものかと。


ああ,知識もちゃんとした意識もないくせに重い話題を扱うのはどうなのよ。むぐぅ。消そうかな。でも,自戒の為に残しておこう。三つ子の魂百までじゃないけど,といっても三つ子までにそういった思想教育の洗礼を受けた覚えもないのだけれど,こういったことは一朝一夕でなんとかなるものではない。簡単なことではないけれど,目と耳をふさいでしまうのはもっといかんだろう(都合の良いとこしか見てない気もするけどなぁ……はぁ)。