道楽娘さんから“ガリ専”についてリファランス。


→「道楽日記」2004/06/29(http://www.ne.jp/asahi/home/douraku/diary2004-06.html


わたしも「ビジュアル系バンド髪長美人」などに代表される中性的存在方面には,走っていたものです。そこまで“ビジュアル系好き”ではなかったけれど,多少は。


ビジュアル系の人たちというのは,総じて細かった。その後売れてくると恰幅が良くなる人も多いことから考えると,彼らが細身だったのは,単に食い詰めていたからなんじゃないかとも思われるけれど,わたしが「細いのが好きだった」と言っているのはビジュアル系バンド美人のような外観を含めてのことで,切り口は違うが同じ辺りを指している。「中性的存在」の方がより男性性の拒絶という点では適切な説明ですね。


もっと言えば,男性のビジュアルの理想は,生身ですらなく,少女漫画というか漫画絵というか,そっちに置いていたものだ。そりゃぁさぞかし細かろうし筋肉もなかろうよ。生々しくもなかろうよ。


但し,わたしは,自らの女性性を受け入れることには抵抗なかったように思う。それについて不安定だった時期の自覚はない。好きな人こそいなかった(に等しい)けれども,男女交際にしろ結婚にしろ出産にしろ,自分の将来に訪れても困りはしないというか。自分が女であることは何の疑問も持たずに受け入れていたな,うん。


それにしても,道楽娘さんの鋭さには,はっとさせられるものです。


少し話は変わるけれど,「夢想的な少女マンガや非現実的なやおい小説は、おそらくこの危ういバランスを保つために必要だったのだ。」の部分を読んで。「夢想的な少女マンガ」が指しているのがどういった作品群かわからないんでそっちはどうとも言えないけど,後者ね。なんだったんだろうねぇ。


今更隠すこともないんで(っつぅか公言しているんで)書きますけど,ちょうど高校生の3年間がいわゆる広義のやおい小説を読んでいたピークだった。大学に入ったころから徐々に読まなくなり,ここ数年はぱったり。今でも出れば買うシリーズがなくはないけど(殆ど無い),そこにやおい小説故の何かを求めることはない。


で,その「やおい小説故の何か」って,なんだったんだろう,って。どうして選択的にそういう小説ばかり読んでいたのかな,と。道楽娘さんの言うように,成熟への憧れと拒否のせめぎ合いの中で自らのバランスを保つといった役割を果たしていたのかしら。上に書いたように,わたしは自分自身の成熟については自覚的には拒絶していなかったんで,俄にはピンとこないんだけど。んー。


単にヒトナミにというかトシゴロナミに性欲が発生していただけなんでしょうか。でも,そこで,男女の恋愛ものではなく男性同士の恋愛ものを好むのは,やはり,自覚していなくとも,大人の女性に対して何らかの避けたい(まだ知りたくない,見たくない)感じが,あったんでしょうかねぇ。もちろん,そこまで深く考えていたわけではなく(自分の行動の意味をいちいち考えたりはしないわな)。


供給については,ルビー文庫もできていて,ちょうど充実していたころだった。今ほどどさどさ当たり前のようにはなかったけれど。


今のどさどさっぷりがどんなもんなのか,わたしはあまり実感を伴わないが,コミック談によく行くかなまる(本人曰く表趣味は「読書・ドライブ・旅行」裏趣味は「マンガ・ギャルゲー・パソコンいじり」)によれば,その手の小説の売り場は遠目で見たとき一画が肌色一色で一目瞭然という,まるでレンタルビデオ屋のアダルトビデオコーナーの如き様相を呈しているんだそうだ。


売れるからこそそこまでの供給があるわけで,わたしが積極的に読みあさっていたころから10年経っても,その年代の女性は今でもそうなんだろう。単なる流行と呼ぶには長いように思う。


窓を開けていたら蚊が入ってきた。一匹は昇天せしめたが,そこで安心していたらどうやらもう一匹紛れ込んでいたらしく,2カ所も喰われた。痒い。(0:59)