大河ドラマといえば,
ガリ専は卒業したかもしれない自分を発見して“思えば遠くへきたもんだ”としみじみ。#20ぐらいでしたっけ,みんなでお相撲をとるシーンがあって,諸肌脱いだオダギリジョーに「うわっ,細っ。もうちょっと筋肉つけろよ」って,フツーに,思ったんだよぅ(感涙)。
昔はかなり細いのが好きで(あ,男性の体格の好みについての話題です,念のため),今でも細いのが好きであることには変わりないのだが,貧弱なのは好かんようになったらしい(オダギリジョーが貧弱という話ではない,念のため)。
筋肉全般だめだったんだよなあ。細ければ細い方が良い,というか。そりゃ不健康全開といった域に到達すると話は別ですよ。健康で健全な範囲において,細ければ細い方がいいと思っていた。
高校生のころから徐々に矯正が始まって或る程度は克服したので,克服できたのは慣れによるものだろうとずっと思っていた。「慣れ」とはつまり,当時スポーツミーハーという世界に足を踏み入れてしまったので,「スポーツ選手はあれが仕事で資本なんだからごついのがあるべき姿である」という価値観に次第に慣れていって,そのうち目も慣れてきた(異様なものとは映らなくなっていった)という話。中学校の終わりごろからプロ野球を見るようになったのは某悪友の影響で(あとは阪神とヤクルトがセ・リーグのペナントを争っていたのも大きなきっかけですが。1992年ね),まあ野球にしろサッカーにしろ,おもしろいとは思ったけれど,選手がかっこいいとは,最初は全く思わなかったね。
でも,今から振り返って思うに,慣れだけではないように思う。つまり,ガリ専だったのはある種の少女的潔癖さっちゅぅか,セクシャリティとしての男性らしさに対する拒絶感というか,そういったことを適切に且つ上品に表現する方法を考えるのはむつかしいので適当にごまかしてしまいますが。男の人なりオス的存在なり,そういうのがダメだったのが,自分自身が成長するに従って存在として受け入れられるようになっていったのではないかと,つまりそれは単にプロ野球観戦好きになったから慣れることができた(それがなければずっとガリガリ好きのままだった)のではなくて,それがなくてもいつかは克服していたのかもしれないなぁ,と。
でまぁ,学部生の前半ぐらいにくやまと男の体型の話をしていて話が合わなかったのはその時点でわたしはまだまだオコチャマだったからという理由も大いにあるということで(勿論今でも男性の趣味は被らない部分も多い。しかし体型に関しては多少被る部分もあるのではないかと思う)。
しかし。男性らしさに対する拒絶感は薄れ寧ろ或る程度であればある方が好もしいとさえ思うようになってきたものではあるが,細いのが好きという好みそのものは変わらない。要するに骨と皮だけでも細い方が良かったのが,骨と皮だけじゃ厭(筋ぐらいは見えててね)に変わっただけのこと。そのあたりのバランスは難しく,そんな難しいことをあれこれ言えるようなご立派な体型を自分自身がしていない以上あまり大それた発言はしない方が世の為人の為情けは人の為ならず(誤用tic)。(1:22)