待ち合わせはJR上野駅
「大きなタマネギの下で」という歌がある。最初に聴いたのはまだわたしが小学生のころだ。文通相手に恋をした男の子が,地方在住の相手の女の子に東京で催される音楽コンサートのチケットを送る。大きなタマネギの下で会いましょう。でも,彼女からは行くという返事が来たのに,当日会場には現れなかった。そんな切ない歌だ。
歌に出てくる「僕」が九段下の駅を降りて坂道を上るときとたぶん同じ心境で,わたしははやる気持ちを抑えて山手線を降り,約束の改札口へと向かって歩く。
お化粧をしたのは何年ぶりだろう。あまりに久しぶりで勝手がわからなくなっていた。パウダーファンデーションがないことに気づいて焦り,アイシャドウが濃くなりすぎて哀しい気持ちになる。マスカラはうまくつけられたけれど,口紅の色が塗ってみたら合っていない。それでも時計を見ながら間に合うように準備をしていたのに,最後の最後,足の爪にマニキュアを塗って上に羽織る物を探していたら,気がついたときには予定していた出発時刻を15分以上過ぎていた。
幸い今は1980年代ではないから,「やっちゃった」と思いながら携帯電話宛に遅刻の連絡メールを入れて,駅へと急ぐ。新しい靴は結局買えなかった。手の爪のマニキュアも塗れていない。髪だって,洗ってドライヤー使ったけれど,半年以上美容院に行っていない。ああ,かわいくない。かわいくない。でも,がんばったってもとがもとだからたかがしてれいる。5日間ビタミン剤を飲んだお陰で,できかけていた吹き出物だけは回避できたけど,どうしてわたしの顔はこんなに丸いか。どうしてわたしの脚はこんなに太いか。その上この格好。変じゃないかしら。なんで昨日の夜にマニキュアぐらい塗っておかなかったんだろう。そして,なんで,遅刻しちゃうんだろう。いつ時計の針が進んだのか全然わからない。過ぎ去った15分の間に自分が何をしていたのかわからない。「気にしなくていい」と返事が来たけれど,きっと印象を悪くした。どうしよう。
電車の待ち時間は思っていたより短くて,連絡したよりも早くには着けそうだ。「彼」は先に来ているだろうか,それとも,わたしの方が先に着くかしら。もしかすると,山手線で乗り合わせてしまうかもしれない。顔は知らない。25歳。右の膝頭が破れたジーンズと,Tシャツに半袖シャツを身につけているはず。そんな少ない情報だけを頼りに,神田駅から山手線に乗ってすぐに辺りを見回して,条件にあてはまる人がいないことを確認してほっと胸を撫で下ろす。
ありふれている。あまりにありふれている。階段を上がって改札を通り抜ける間にも,周りの人に目を走らせる。恐れていたほどにはたくさんは似たような格好の人はいないことに少し安心して改札を出て,手に携帯電話を握りしめたまま改札が最もよく見える柱の前に佇んだ。
改札機からはひっきりなしに多くの人が吐き出されてくる。多くの新幹線が停車する上野駅は,日曜日の昼間でも利用客が多い。改札の外ではわたしと同じように人待ちをしている人も少なくない。後ろを振り向けば通りを挟んで上野恩賜公園の入り口。そちらにも人待ち顔の人がいる。目の前を,何人もの若い男性が通り過ぎていく。改札から出てくるよりも前に見つけようと必死に目を凝らす。そろそろ着く頃だろうと思うと,いよいよ緊張が増してくる。
ふと,目の前を横切った男性のジーンズがほんの少し解れていた。通り過ぎるのを見送った後,思い切って電話を掛ける。電話を掛けるのも初めて。数秒後に会えるはずの人なのに,どきどきしながら初めて言葉を交わす。少しだけ話をして電話を切り,視線を上げると,目の前に居た,さっき通り過ぎたのとは違う男性が,通話終了後の携帯電話を折りたたみながらわたしの横を素通りしていく。
え,ちょ,ちょっと,待って。
焦って後ろを振り向き追いかけて声を掛けようとした時,視線の端で「彼」が軽く会釈をした。
やっと会えた。すんでの所で人違いをしかけたわたしは,その場面を見られていたと知って恥ずかしくて顔から火が出そうだ。
頭が真っ白になって,何を言ったものかわからない。ああ,何はなくとも遅刻のお詫びはしなくては。